【魂喰蝶】8
食事を終え、すっかり胃袋を満たした僕達を乗せた高級車が夜の東妖市を走る。
歓迎会をたっぷり満喫した冥鬼は豆狸を両手で抱いて眠りこけていた。
「むにゃ……ろーすとちきん……あっぷるぱい、とまとすーぷ……」
「うふふ……夢の中でも楽しそうね、メイちゃんは」
ハク先輩が優しく冥鬼の頭を撫でる。
その横顔に見とれていた僕は、慌てて冥鬼の髪型について礼を述べた。
「そ、そうだ……冥鬼の髪、結んでもらってありがとうございました。冥鬼もすごく喜んでました、よ」
しどろもどろになりながら礼を言うと、不意にハク先輩の手が僕の髪に伸びた。
ほっそりとしてしなやかな先輩の、ゆ……指がっ……僕の髪に触れてるっ……!?
「あっあぅ……あの……!?」
「楓くんもみつあみにしてみたら?」
先輩の指が僕の髪を絡めとって、優しく撫でてくる。
隣に座っているせいかいつもより距離が近くて、ハク先輩を意識してしまうんだがっ!
「ぼっ、僕はっ、遠慮しておきます……!」
恥ずかしさと嬉しさでいっぱいになりながらかぶりを振ると、ハク先輩は『そう? 残念』と呟いて唇を尖らせてみせた。
そんな拗ねたような表情すらかわいくて、綺麗で……僕は、先輩にならいたずらされても良い……なんて……。
そんなことを考えていた僕の妄想を断ち切るように、ふとゴウ先輩が口を開く。
「──あのさ」
何となく言いづらそうに唇を尖らせて窓の向こうの景色を見つめていたゴウ先輩は遠慮がちに僕とハク先輩を見た。
「オマエらも見たよな? あの蝶」
ゴウ先輩の問いかけに、僕はニヤけていた口元を思わず手で隠した。
幸い、車中に部長は居ない。運転席と後部座席には距離があるから声をひそめていれば内緒話もできそうだ。
「蝶って、あの金色の蝶のこと……よね?」
ハク先輩が少し声をひそめて聞き返す。当たり前だと言わんばかりに、ゴウ先輩は小さく頷いた。
「私、途中で気を失っちゃったの。きっと魂を抜かれてた……から?」
「みたいです……僕が来た時には、ハク先輩が魂を抜かれた直後でしたから」
僕がハク先輩に答えると、ハク先輩を挟むようにしてゴウ先輩が僕へと問いかける。
「──鬼道は、アイツと戦ったのか?」
ゴウ先輩のネコミミが目の前で揺れた。
僕はそれを見ながら、少し迷いつつ口を開く。
「それが……よく覚えてなくて。僕はゴウ先輩に、魂喰蝶のことを聞いてすぐにハク先輩たちの部屋に向かったんですけど……」
誰が、どうやって退治したのか、説明しようとすると頭がぼんやりしてしまう。
間違いなく、僕が倒した……はずなのに、時間が経つほど記憶が曖昧になる。おかしいな……。
「ちょ、ちょっと待て。こんじきちょうって何だ? あの蝶の名前か?」
ふと、ゴウ先輩が両手を振って僕の話を中断させ、不可解そうに眉を寄せた。
「せ、先輩が教えてくれたんですよ? オマエは魂喰蝶の影響を受けないけど鱗粉に気をつけろって、冥鬼に伝えてくれって……」
「……覚えてねえ。いつだよ」
眉を寄せているゴウ先輩に、僕は彼が気を失う前の話を口にする。けれど先輩は本当に覚えていないようで、しきりに首をかしげていた。
「レンちゃんに蝶の説明を聞いて、無意識に覚えてたんじゃない?」
ハク先輩がゴウ先輩をなだめるけれど、ゴウ先輩は首を傾げるばかりだった。
「こんじきちょうなんて言葉、聞いた記憶ねえし……それに、何で鬼道が蝶の影響を受けないなんてことをオレが知ってんだよ?」
「ぼ、僕に聞かれても分かりませんよ……」
ちょっと怒ったように問いかける先輩の様子は、わざととぼけているようにも見えない。
むしろ、記憶にない自分の話を不審がるようにちょっと怯えたような顔をしていた。
「まあまあ! もういいじゃん! 魂喰蝶はやっつけたんだしさっ!」
僕たちをなだめるようにひょうきんな声を上げたのは、冥鬼の腕の中にいる豆狸だった。さっきまでよだれを垂らしてグースカ寝ていたくせにいつの間にか起きていたらしい。
かわいいものを見るような目で微笑むハク先輩とは真逆に、ゴウは目を白黒させて豆狸を指した。
「た、たたたタヌキが喋ってるにゃッ!」
思いのほか大きな声を上げたゴウ先輩は、自分の声に驚いてなのか慌てて口を両手で押さえる。
「おう、ドラ猫! 今度はちゃんとタヌキって言えたな!」
「そ、その呼び方……まさか、オマエ……」
無邪気に答えた豆狸に、何かを察したらしいゴウ先輩はさらに理解が追いつかないようで目を白黒させている。
「えっへん。今更気づいたのか? オイラこそオカルト研究部顧問の日熊大五郎先生だぞっ!」
豆狸は小さな体を大きく見せるように腹を突き出してみせた。
変わり果てた教師の姿に、ゴウ先輩は顎が外れるんじゃないかと思うくらい口を大きく開けている。
「僕も初めて知った時は驚きましたけど……彼は間違いなく、あの日熊先生ですよ」
「ふふふ……驚くわよね」
ハク先輩が口に手を添えて楽しそうに笑う。
そういえば……ハク先輩は日熊先生の正体に最初から気づいているみたいだったな。
「ハク先輩……日熊先生のこと、知ってたんですか?」
そう尋ねると、先輩は小さく頷きを返して豆狸に手を伸ばした。
ちょんちょん、と鼻をくすぐった指が豆狸の額を撫でる。
「小さい日熊先生と会ったのはまだ私が一年の時よ。お腹を空かせて伸びていたセンセイを、私と香取ちゃんが見つけたの」
どうやら小鳥遊先輩は、一目でそのタヌキが妖怪だと分かったらしい。
ハク先輩は当時、家庭部でたくさんホットケーキを作ったばかりだったらしく、それを食べさせた後、獣臭い彼を洗ってやったそうだ。なんて羨ましいんだろう……。
「オマエ……妖怪なんか居ないとか顧問なんかしないとか散々言ってたじゃねーかよ!」
「だ、だってだって、最初は反対したほうが盛り上がるってハクちゃんがぁ……」
ゴウ先輩に責められた豆狸が、両手で目を隠すようにしてもじもじと縮こまる。
僕も何となく意地悪になって、豆狸の鼻先を指でつついた。
「これでお前の正体を小鳥遊先輩が知ってた理由が分かったよ。顧問を頼みに行く時の、ハク先輩の意味深な発言も。雄臭くてあそこが毛深い──確かにそうだよな」
僕は鼻をつついた指をゆっくりと下ろし、毛深いお腹をわしゃわしゃと撫でてやる。
すると、豆狸はくすぐったそうにケラケラ笑って僕の指にしがみついてきた。
「オイラ、妖気が回復したらすぐにでもオカルト研究部の顧問をやるぞ! 任せてくれよ!」
笑い疲れたらしい豆狸が調子よく僕の腕を伝って駆け上がる。
重量感のあるしっぽをゆらゆらと振って肩の上にのぼってきた豆狸を、ハク先輩がかわいいものを見るような目で見つめていた。
逆にゴウ先輩は、まだ信じられないものを見るような顔をしている。……まあ、当然か。僕もだいぶ驚いたし。
「いいな、がっこー……」
みんなが盛り上がる中、冥鬼が不満そうな唸り声を上げて寝返りを打つ。
寂しそうな、小さな呟きが聞こえた気がしたけれど、それが僕たちの耳に届くことは無かった。




