【狐の輪 教え授けし 鬼遊び】3
体は疲れているのに、疲れが取れない。7月に入ってからは、ずっとそうだ。
古御門キイチは、眠そうな顔をして玄関に立っていた。
「昨日と同じ時間に帰る。飯は冷蔵庫の中だ。サンドイッチだから温めなくても食える」
淡々とした事務的な態度ではあるが、世界中の誰よりキイチを大切にしているのは、間違いなく彼だろう。
八雲は荷物を手に取って、名残惜しそうに振り返る。
「大丈夫だよ。いってらっしゃい、八雲」
けれど、そんな八雲ですら知らないのだ。キイチの抱えている闇の正体を。
キイチ自身ですら、胸の内を言葉にすることが難しい。
7月23日の夜、八雲と共に夕飯を済ませたキイチは夜風に当たるために、ひとりで縁側に出た。
楓や柊の居ない夜は、少し寂しい。豆狸の大五郎は元々住んでいたアパートに戻り、八重花は柊に何かを依頼されて家を空けていた。魔鬼に関しては、柊たちが京都へ行ってから帰っていない……。
つまり今の鬼道家には、八雲とキイチしかいなかった。
「……」
ぼんやりとした表情で縁側に座っていたキイチは、ふと庭の暗がりの中に人影を見る。
「おかあさま……?」
そこに立っていたのは和服の良く似合う黒髪の女性。血色の悪い顔を隠すように厚い化粧をして凛と立っていたその女性は、古御門ゆり。キイチの母だった。
入院中の人間が、こんなところにいるはずがないのだが、キイチは母の姿に気づいて立ち上がる。
「おかあさま」
キイチが呼びかけると、ゆりは暗がりの中で長い黒髪を揺らした。
「何で……」
それは怯えたような、怒りを含んだ声。
久しぶりに聞くその声は、まるで他人のように聞こえた。
不思議そうに首を傾げるキイチをキッと見据えるように、ゆりが顔を上げる。
「何で……お前は、姉さんの子とそっくりな顔で生まれてきたのよッ──!!」
頭の中を激しく揺らす強い拒絶に、キイチの肩がびくりと跳ねる。心臓をギュッと鷲掴みにされたような嫌な感情に包まれて、キイチは咄嗟に俯いた。
「どうした、キイチ」
部屋から顔を覗かせた八雲が、後ろから声をかけてくる。縁側でぼうっとしていたキイチは、おずおずと振り返った。
「……あそこに、おかあさまがいる」
八雲は、キイチの指した方向を見ると、困ったように笑ってキイチの頭を撫でた。
「よく見ろ、キイチ」
子守唄のような優しい声に促されて顔を上げたキイチは、暗がりの中を注意深く観察する。
そこにゆりの姿は、どこにも無い。
「ちゃんと寝ているか? 顔色が良くない」
「……わかんない」
幼い子供のように、キイチが小さく首を傾げる。
「なら、今夜は俺が一緒に寝る」
八雲はそう言って、キイチと同じ布団で寝てくれた。それでも、ぐっすり眠れた心地はしないのだ。
7月24日。
その日は、朝から八雲が居なかった。昨夜の時点で緊急の呼び出しがあったらしく、布団の中にはキイチのぬくもりだけが残っている。
鬼道すみれの仏壇の前にて、正座をしたままの不安定な姿勢で目を覚ましたキイチは、ほうけたような顔で辺りを見つめた。
一体いつからその姿勢で眠っていたのか──よく覚えていない。
写真立てには楓の母が写っている。
(綺麗な、人……)
写真立てを手に取って、キイチが赤い瞳を瞬く。
昨夜、母に言われたことが脳裏を過ぎる。
『何で……お前は、姉さんの子とそっくりな顔で生まれてきたのよ』
まるで写真立ての女性も同じ問いかけをしているような心地だった。
キイチは、母に愛された記憶がない。けれど、兄の存在だけは知っていた。自分には、腹違いの兄がいることを。
「……?」
その時、背後に誰かの気配がした。
振り返ると、赤い瞳の少年が、冷たくキイチを見下ろしている。
「兄さん……いつ帰ってきたの?」
京都に行ったはずの兄──楓が、そこにいた。
キイチは深く考えずに体を起こそうとするが、足が痺れて上手く立ち上がれない。
かくん、と膝が折れてその場に倒れ込んでしまったキイチの視線の先に、楓の足が見えた。
「古御門家は、八雲さんが居れば上手くいく。僕も親父も頼りにしてる。だけど、お前は?」
キイチは、何を言われているのか分からず、おずおずと楓を見上げる。ガラス玉のような兄の目は、普段の優しい赤とどこか違っていた。
「兄さ……」
痺れた足に力を入れようとして畳についた手を、楓の足が踏みつける。踏みしめるように強く畳に押し付けられて、キイチが顔を顰めた。
「い、た……っ……」
苦痛に顔を歪めるキイチの上で、誰かが鼻で笑う。それが楓だとは思いたくない。
キイチは、声の主を確かめるようにゆっくりと顔を上げた。
「お前は、古御門家に要らないんだよ」
突き放すような冷たい声に、キイチの意識は徐々に遠のいていく。
「キイチ、こんなところで寝たら風邪を引くだろう」
気がつくと、仕事から帰ってきた様子の八雲がキイチを見下ろしていた。体を起こそうとするキイチだったが、長時間畳の上で寝ていたせいか、上手く起き上がれない。
そんなキイチを、八雲が軽々と抱き上げる。
「夕飯の用意をするつもりだったが、その前に風呂だな」
苦笑した八雲の視線の先で、キイチは自分の裸足が泥で汚れているのが見えた。
どうしてこうなったのか、よく覚えていない。けれど頭の片隅に、兄の大切な人がチラつく。
少女の名前は──。
「ハク……」
キイチが何かを言いかける。
「あまり心配させるな。お前の苦しむ姿は、もう見たくないからな」
八雲はそう言ってキイチの長い髪を撫でた。
「八雲、ボクのこと……好き?」
「当たり前だ」
八雲はそう言ってキイチにしか見せない顔で微笑む。
「ボクは、古御門家に要らない?」
「馬鹿なことを言うな」
キイチの言葉を断ち切るように、八雲が言った。
無垢な眼差しを向けるキイチをしっかりと見つめた八雲は、宝物を扱うように白い髪を何度も撫でる。
「寂しくさせて、本当にすまない。明日は在宅だから、ずっとお前の傍にいられる」
キイチは、しばらくぼうっとした表情を浮かべていたが、やがて強く八雲の体にしがみついた。畳に押し倒された形になった八雲を、キイチが気にする様子はない。
「離しちゃ、いやだ」
キイチは、怯えるように八雲の胸に顔を埋めている。
八雲は、少し驚いたような表情を浮かべていたが、やがてキイチの背中に腕を回して、優しく撫でてくれた。
その日の夕飯は、八雲が腕を奮った。八重花や楓の作ったものより味や見てくれは劣っていたが、自分のために作ってくれたことが、とても嬉しい。
付きっきりで世話を焼かれ、慈しむような琥珀色の瞳と視線が交わるたび、大切にされているのだと実感できる。
本当の兄弟ではないけれど、ふたりの間には血の繋がりを超えた絆が確かに存在していた。




