【狐の輪 教え授けし 鬼遊び】2
「まるで他人事ですね。この国のことなどどうでも良いらしい」
会議室の空気は、冷房で冷えきっている。
古御門八雲は椅子にもたれながら、ネクタイに指をかけてぐっと引き下ろす。
その吐き捨てるような呟きに、向かいに座っている帝人は穏やかな様子で答えた。
「彼らは彼らの戦場で戦っていますよ。陰陽師や警察と同じようにね」
どこまでも落ち着いた物腰の帝人に、八雲は毒気を抜かれたようなため息をつく。
「俺は血の気が多いんです。古御門泰親のように、総連の上に立つ者に相応しくない」
その言葉に、帝人は『そうですか?』と僅かに目を見張って微笑んだ。眼鏡越しの瞳は、まっすぐに八雲を見つめている。
「あなたならきっと、新しい総連を作り上げてくださると……私も皆も期待しているんです」
それは、世辞や八雲に媚びたものではなく、心からそう思っているような口ぶり。
八雲は、眩しいものを見てしまったかのように帝人から目を逸らして沈黙した。
やがて、八雲が席を立つ。
「古御門さん」
不意に、帝人が八雲を呼び止めた。帝人は温厚そうな眼差しのまま、八雲を見つめている。
「常夜香果とは、何なのでしょうね」
八雲は振り返ることなく、肩越しに怪訝そうな表情を浮かべた。
その場から八雲が立ち去らないのをいい事に、帝人は話を続ける。
「とある小さな村の──守り神の肉をすり潰して作った団子……それが、私の知る常夜香果の由来でした。その村では、常夜香果を作れるのは狗神家と鳥飼家だけとなっています」
狗神という言葉に反応したのか、今度こそ八雲の表情が険しくなった。
小さく拳に力が入ったが、帝人が気づくことはないだろう。
「何故、今その話を?」
怪訝そうな表情を隠すことなく、今度こそ八雲が振り返る。
言葉を選ぶように視線を落とした帝人は、腕時計を片手で覆うように握って言った。
「調べて分かったのですが……常夜香果とは、鬼道澄真が鬼を退治した頃の時代、突然文献に出てきた言葉なんです」
手持ちに資料がなくて申し訳ないのですが、と帝人は苦笑する。
彼の情報源は、おそらく御花畑家秘蔵のもの。普通の陰陽師では、決して見られない。御花畑家の祖先は、海神天皇へと辿り着くからだ。
海神天皇は記録していたはずだ。妻を苦しめる妖のこと。彼女を助ける方法──その全てを。
「鬼道澄真伝説の少し後、件の村で小さな事件が起きまして。当時、村の有力者だった者たちが、常夜香果の製造方法を共有することになったそうです……」
帝人は伏せ目がちに言った。
その村で何があったのか、帝人は詳しく語らない。
「……」
八雲は、眉を寄せたまま口を噤んだ。
遠い昔、母の病を治すために常夜香果を求めて海に身を投げたとされる美燈夜姫の伝承。それが全国に広まり、常夜香果の伝説が生まれたのだと帝人は推測しているのかもしれない。
つまり、狗神鏡也が持っていたとする常夜香果の製造方法は、伝承とは全くの別物。
難しい顔をして考え込んでいる八雲に気づいてか、帝人は眼鏡のブリッジに指を当てた。
「すみません……引き止めてしまいました」
「いや」
腕時計に目を落として、帝人が苦笑する。既に12時20分に差し掛かるところだ。
「我々もランチにしましょうか? 西口に美味しい懐石料理の店があるんです。この時期だと、夏野菜を使ったメニューが絶品で……。いかがでしょう?」
御花畑帝人という人間は、悪意のない性格なのだろう。腐った大人たちばかりの中で、彼のような人間は本当に稀少だ、と八雲は思った。
「いえ。昼飯はこれで済ませているので」
バッグから取り出したスティックゼリーの袋を歯で噛みちぎりながら八雲が告げる。
その食事時間、わずか3秒にも満たなかった。
すぐに、それをゴミ箱へ放り投げて身を翻す。
「どこへ?」
「見回りに」
八雲が淡白に答える。帝人は、穏やかに微笑んで席を立った。
「同行します」
八雲は答えなかったが、拒否もしなかった。
共にエレベーターに乗り込みながら、帝人は八雲のバッグに目を落として微笑む。
「先程のゼリー、私も買ってみたいですね」
それを聞いた八雲は、しばらく目を泳がせてから、バッグからスティックゼリーを取り出した。
鬼道親子が不在の今、東妖市を怪異から守れるのは八雲だけ。命を救ってくれた彼には、恩がある。
そして、それは妻を救われた帝人も同じだった。
「食べますか?」
そのためなら、食事時間を削ってでも人命救助を優先するべきなのだ。
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そんな多忙な時間を過ごしているとは知る由もなく、手持ち無沙汰な様子で鬼道家の玄関から顔を覗かせているのは、古御門キイチ。
庭先に、白い百合の花が咲いているのが見えた。キイチはそっと花弁に顔を寄せる。
そっと伏せた瞼から、長いまつ毛が揺れていた。
「八雲。早く、帰ってきて……」
白百合に話しかけるように、無垢な願いを口にする。
その小さな囁きは、八雲にすら届かない。
ゆっくりと瞬いたキイチの赤い瞳に、暗い青が染み込んでいく。
青い瞳に映った白百合は、小さな炎のように──無垢な青を滲ませて揺らめいていた。
その炎は静かな庭の片隅で、誰にも知られることなく育っていく。
その青が、いずれ呪いの火種となることを、無垢な鬼はまだ知らない。




