【渦巻く檻と水中花】8
片目を潰された悪樓が、水中で悶える。その動きに合わせて、ダメージを負った目から血の赤煙がリボンのようにたなびいて、水中を舞った。
意識を失ったレンに悪樓の手が伸びた時、彼女を守るように小さな影が近づく。
「ケロ」
丸々と太った小さな体に三本の足。ふよふよと気持ちよさそうに水中を泳ぐそのカエルは、豆粒のような瞳をぱちぱちさせながら、水流に身を任せて勢いよく流されていく。
渦潮の檻の中で、小さなカエルの体は悪樓の大きな口に向かって吸い込まれていった。
その体は水風船のように大きく膨れ上がり……。
「──」
カエルが破裂する瞬間、その姿を少年へと変貌させる。まるで無重力の中を支配するかのように悪樓の顎を蹴り上げ、水中でバク転した少年の、長い三つ編みがふわりと水中を漂った。
「だ、誰……?」
片目を押さえたまま、悪樓が濁った声で問いかける。
額に嵌められた古銭を煌めかせたあどけない顔の少年は、ぷくっと頬を膨らませて水中に吹き出した泡を掴み、それをレンの口元にそっと送り込む。
「老师的朋友、我不会让他们再受伤害了(訳:先生の友達に、これ以上手は出させない)」
その言葉と共に、少年の手中が渦を巻いて、水で出来た槍が形作られていった。
「三本足に額の方孔円銭……もしかして、金華将軍の子?」
青蛙神とは、縁起のいい福の神である。金は富、そして華は繁栄を意味する。その《金華》に、力の象徴である《将軍》の称号を与えることで、青蛙神の持つ力の大きさを示している。
その子供であるハルもまた、富と繁栄を司る小さな福の神だ。
「我搞不懂(訳:ちんぷんかんぷん)」
ハルは、無垢な表情で首を傾げる。その緊張感のない無邪気さに、悪樓が舌打ちをした。
「私に勝てるかしら……?」
その体は鱗に覆われ、醜い体が変化していく。頭はワニ、そして体は魚という醜悪な姿へと変わった。
「不好吃(訳:まずそう)」
唇を尖らせて呟いたハルは、槍を手に床を蹴った。無重力状態の水中は、まさに彼のためのフィールド。
しかし、それは悪樓も同じだった。
「ガァアアアッ!」
大きな口を開けて、悪樓が襲いかかる。先程とは比べ物にならないスピードだ。
ハルは、悪樓が起こした水流に身を任せてそれをすり抜けようとしたが、同じ手は通用しない。
「哈!」
眼前に悪樓の大口が迫る。
ハルが槍を突き立てる寸前、悪樓の鋭い歯がそれを噛み砕いた。
ハルは武器を砕かれながらも、しなやかな体の動きで悪樓の攻撃を受け流し、舞うように翻弄していく。
「すばしっこいのね……でもこれならどう!?」
悪樓が吠えた。水中で身をくねらせながら、ハルを追いかける。
涼しげな表情からハルが優勢に見えたが、その動きが次第に鈍り始めたのを、悪樓は見逃さなかった。
「!」
尾ひれが、ハルの体を強く弾く。ハルの体は渦潮の檻に叩きつけられた。
(頭、くらくら……ねむい……)
意識が飛びそうな感覚に包まれて、ハルの瞼が落ちていく。実戦経験の少ないハルにとって、悪樓は絶好の相手。
しかし彼はまだ赤子。長期戦は不利だ。
「丸呑みにしてあげる。その人間ごと、私の餌になるのよ……!」
悪樓が言った。その言葉で、ハルが僅かに反応する。
この戦いは、自分だけのものではない。楓の友人であるレンの命もかかっている。
「……せん、せ」
ハルの手が、折られた槍を握った。
悪樓は、尾ひれを激しく揺らしながらハルに迫ってくる。
その時、ハルが手の中の槍を放った。その一撃が、悪樓の肩を深く貫く。
「がはッ!」
硬い鱗を貫通して、槍が悪樓の肩に突き刺さった。傷口から血煙が上がる。
「ガァアッ!」
悪樓は大きな口を開けて渦潮を起こす。レンもろともハルを喰らうつもりだ。
(ね、むい……ごめん、せんせ……)
強烈な眠気に抗えず瞼が落ちていく。
今にも悪樓の口がハルを丸呑みにしようとしたその時、ハルの方孔円銭が一際眩く輝いた。
「ギャウゥッ!」
あまりの眩しさで悪樓の目が眩む。
その時、悪樓は見た。ハルの背後に佇んだ青蛙神の幻影を。あれこそ金華将軍の名に相応しい、巨大な妖怪の姿。
それは幼い青蛙神の持つ未来の可能性か、それとも彼を守護する歴代の青蛙神の力なのか──悪樓には分からない。
「くそッ!」
激しい光に怯んだ悪樓は水中で暴れるように身を捩ると、泡となってその場から姿を消した。
同時に渦潮の檻にも亀裂が走り、水の幻影が溶けていく。
「?」
ハルは、無邪気に首を傾げて自分の額に触れるが、既に方孔円銭は鎮まっている。背後を見ても、別の妖怪が待ち構えているわけでもない。
「すぅ……すぅ」
意識を失ったレンが、床に横たわっているだけだ。気持ちよさそうに寝息を立てており、怪我をした様子も見られない。
ハルはレンの安否を確認した後、袖の中から防水仕様のスマートフォンを取り出した。ケースはもちろんカエル柄だ。
『任務、完了です!((((っ・ω・)っ』
送信先は、かつて烏天狗の看病でRAIINを交換をした小森病院の副院長。
『ありがとうございます。そのまま病院に来られますか?』
副院長からの返事は、すぐに届いた。メッセージと共に、小森病院までの道のりが描かれたファイルが添付されている。
『お疲れのところすみませんが、急いでください。病院の周りが騒がしくなってきました』
ハルは袖で目を擦った。
ふと、足元で寝ているレンが小さな笑い声を上げる。何やら楽しい夢でも見ているのか、レンの口元は緩んでいた。
「むにゃむにゃ……次は夜の校舎を探索するわよ……ついてきなさい……」
楽しそうなレンの寝言が理解できなかったのか、ハルはきょとんとした顔で瞬きを繰り返すと、スマートフォンを仕舞い、レンをそっと抱き起こした。
眠くてたまらなかったが、そうも言っていられない。
「ふわぁ……」
小さなあくびを噛み殺したハルは、レンを抱いて小森病院へと向かうのだった。




