【渦巻く檻と水中花】7
悪樓が近づくたび、絨毯に水が染み込み、レンの足元を濡らしていく。ぬるりと糸を引くような粘ついた水が、足の裏にまとわりついて、背筋がぞくっとした。
「怖い? それとも……気持ち悪い?」
ニヤ、と悪樓が笑う。レンの鼻をつく、生魚のような腐臭が漂った。
「私は、あなたをかわいそうだと思うわ。ただの人間が、こんなところまで首を突っ込むなんて……もう引き返せないものね」
悪樓の声は、レンの耳元でさざなみのように囁きかけてきたかと思えば、すぐに濁流のように押し寄せ、思考をかき乱していく。
部屋の中に水が満ち、あっという間にレンの腰から下が水に浸かったような感覚に陥った。
(息が──何か、変……)
レンは浅い呼吸を繰り返しながら首元を押さえる。
水は、みるみるうちにレンの体から自由を奪っていき、いつの間にか狐白の姿も忽然と消えていた。
戸惑うレンを見て、悪樓が笑う。
「大丈夫よ、これは料理の前に野菜を洗うようなもの。汚れが付いた野菜なんて食べたくないでしょ? だから、よく水で洗い流すの……」
子守唄のように優しく、ぐずる幼子をやんわりとなだめるような声で囁いた。
水の流れや波の音が耳の奥で混ざり合い、聞いているだけで心が安らいでいく──。
「あなたの罪も、全部洗い流してあげる」
悪樓の優しい音色が、レンの意識を呑み込もうとしたその時──崩れ落ちそうになっていた足にぐっと力を込めたレンは、強気な目を向けた。
「狐輪教は言葉で人を操る催眠術のようなことをするって聞いたことがあるわ。私が何の対策もしていないと思った?」
レンはそう言って、自分の耳を指す。彼女の耳には、兄から託されたワイヤレスイヤホンが入っていた。総連から貸し出された特別な呪具だ。
「あなたたちの狙いは、何?」
レンが気丈に問いかける。
悪樓は、耳まで裂けた唇を自分の手で触った。その腕には、硬そうな鱗がびっしりと生えており、見ているだけで生理的に鳥肌が立ってしまう。
レンの二の腕に鳥肌が立っているのを見た悪樓は、大きな口から舌先をチロチロと出して笑った。
「神に従い、全ての生き物が共生すること」
レンを囲むように、水の柱が次々に立ち上る。それはあっという間に巨大な水の檻へと変化した。
「自由共生党の理念は、ご存知? 私たちが共に在ることが、自由への第一歩なの」
檻の中に水が満たされて渦巻き、酸素を奪おうとしてくる。
咄嗟に片手で口を押さえたレンは、この状況を打破するためのアイテムを探ろうとするが、息ができない状況では気持ちばかりが焦り、正常な判断ができなくなるだけだ。
「狐白様は、こんなに醜い私を綺麗だと言ってくれた。だから私は、あの方と共に在りたい。みんなそうよ……狐白様に救われたの」
辛うじて、残された酸素を取り込んだレンは水面に出ようと、水を蹴って必死に浮上する。それを追った悪樓が、レンの足を掴んだ。
「だから私は、あの方に全てを捧げるの! それが……私の忠誠なのだから──!」
悪樓は大きく口を開け、レンの体を容赦なく水中に引きずり込んでいく。もがくたびに息が抜けて、意識が遠ざかる。
(……くそっ)
薄れゆくレンの脳裏に、兄の言葉がよぎった。
普通の人間が、怪異に立ち向かうなど無謀だと。
否。
(私は……高千穂レンなのッ……!)
レンは最後の力を振り絞って、手首の腕時計に触れた。
カチリと音がして、悪樓の傍にあった観葉植物から煙が立ち上る。
「なッ……」
一気に高温の蒸気が吹き上がり、悪樓に直撃した。
「う、ぎゃ……ぁあああッ!!」
甲高い叫び声が水中に飲み込まれる。
(見たか、お手製のスモークグレネード……!)
レンは勝ち誇ったように笑ったが、次の瞬間──空気の漏れる音を立てて、息を吐き出した。
水の中で意識が溶ける瞬間、レンの目の前に小さな影が現れたような気がする。
それは非常に小さく、この場に似つかわしくないもの。だが、明らかに異質な生き物。
見たこともない、三本足のカエルだった。




