【渦巻く檻と水中花】6
レンが兄から得た資料の中にあったのは、狐輪教──そして自由共生党の暗部だった。集団ヒステリーを引き起こしている原因は、彼らの推進しているワクチンにある。
ワクチンを接種した人間は、約半数が発狂。意味不明な言動や、突然人に襲いかかるといった異常行動を起こす──。
これを不特定多数の場で公表すれば、狐輪教や、それを支援している自由共生党に大打撃となるだろう。
レンは勝利を目前にして、完全に慢心していた。
(なに……? こいつ……)
だが、レンの目の前に現れた少年は、全てを包み込むような、慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
ただひとつ、決定的な違和感──。その瞳の奥には、愛も、哀れみもなかった。
まるで、人の姿をした機械と出会ってしまったような、そんな感覚。
「阿來が、いつもお世話になっております」
狐白が丁寧に頭を下げる。だが、レンは何も答えない。言葉が出てこなかった。
完全に圧倒されていたからだ。尾崎狐白という、異教の主を前にして。
沈黙したまま固まっているレンを見て、狐白がほんの少しだけ首を傾げる。
「高千穂レンさん」
「──ッ!」
声をかけられて、ようやくレンは我に返る。
狐輪教の悪事を暴き、誘拐されたハクの居場所を聞き出すこと──それが当初の目的だったはずだ。こんなところで怖気づいてなんていられない。配信だって、既に始まっているのだから。
「──あなたたちは、何が目的なの?」
震える声を隠すように、レンが普段よりも抑えた声色で問いかける。
気を抜けば、呑まれてしまいそうになる狐白の異様な存在感を振り払うように、レンは素早く切り込んだ。
「戦前の、尾崎家について調べたわ。あなたたちが盗んだ御神体のことも!」
遠くで、さらさらと水の流れる音が聞こえる気がする。
──そういえば、この部屋には水槽があったはずだ。
きっとその音だろう、と思いながら、レンは狐白を見据えた。
狐白は、穏やかな表情で、レンの言葉を待っている。
それはまるで、母の言葉を待つ幼子のように、じっとレンを見つめていた。
魂が入っていないかのような琥珀色の瞳が、イタズラを咎められた子供のように見える。レンの良心が、チクリと痛むほどに。
(ここまで来て、怯む私じゃないのよ!)
カメラが動いていることを意識しながら、レンは続けて口を開いた。
「戦前、古御門家と尾崎家は、今じゃ信じられないくらい良好な関係だったんですってね。でも、その関係は、尾崎家が古御門家の御神体を盗んでから壊れた」
狐白は黙ったままレンの話を聞いている。それが幸いして、レンは調子を取り戻した。
「その御神体にどんな力があるのか、私は知らないわ! だけどあなたたちは、それを信じさせて……人の心を弄び、支配しようとしている! そうよね!」
しん、と室内が静まり返る。水の流れる音だけが二人の間を流れていた。
やがて長い沈黙の後、狐白が噴き出すように笑う。
「何がおかしいのよ!」
レンが声を荒らげて問いかける。狐白は、そんな怒りすら受け止めるように、ゆっくりと首を傾げた。
「私は、支配などしません。ただ、共に在りたいと願うだけ。«家族»の皆さんとも、あなたとも──」
狐白が微笑んだ。その笑みは儚く、慈愛をたたえているが、琥珀色の瞳は恐ろしいほど空虚だった。
ずる……クチャクチャ……ずるる……。
何かを引きずるような音が、部屋の奥から聞こえた。
そして、湿った足音と共に──女が、顔を覗かせる。
それは、異様な光景だった。
妙齢の女性。
真っ赤に染まった口元から、欲張って詰め込みすぎた生肉を溢れさせている。
その目はギラつき、獲物を待ち構える水生生物のようだった。
「悪樓、お行儀が悪いですよ」
狐白が、やんわりとたしなめる。まるで幼い子供を叱るように。
悪樓と呼ばれた女は、ひたひたと近づいてくる。
さらさらと水の流れる音が、耳の奥で反響した。
(聞いてないわよ……こんなの!)
蛇に睨まれたカエルのように、体が動かない。
悪樓はニタリと笑って、大きく裂けた口の端から、糸を引くように唾液を垂らす。
──それは、日常に退屈した少女が長年待ち焦がれていた«怪異»そのものだった。




