【土用凪 祓いの酒で 酔いし虎】12
「うぐ、るるぅうう……ぉ゛えッ……」
獣のような嗚咽が、夜の埠頭倉庫に響く。
宿儺に蹴りを決められた直後、タイガは激しく嘔吐した。
打ちどころが悪かったのだろう。すぐに立ち上がることができず、四つん這いのまま獣のような唸り声を上げている。
「終わりだ、タイガ」
意識を失った海斗の肩に腕を回して体を起こしながら、宿儺が告げた。頭からは出血して立っているのもやっとだったが、ここで倒れるわけにはいかない。
「……こ、ろ……す……」
タイガが呻くように呟く。コンクリートの地面に爪を立てて体を起こそうとするタイガの元に、男たちが駆け寄った。
伏見会の武闘派組織タテガミ。彼らにとってタイガは、新生ガットフェローチェのボスである以前に、伏見会の大事な跡取りでもある。
本来ならタイガを守るべき役回りの彼らだが──その挙動は、どこかおかしい。
「消えろ、役立たずのクズどもッ……ぉ゛えッ……」
びちゃびちゃ、と音を立ててタイガの口から胃液が滴る。振り払おうとするタイガの腕や肩を押さえ込むように男たちが掴んだ。
「ファニホ増やせ、この感じじゃ10ミリも20ミリも変わんねーだろ」
そう言って男たちが取り出したのは、黒い煙草。ライターで火をつけられたそれは、不気味な黒い煙を立ち上らせていた。
「うるせェ……触んな、死ね、死ね、死ねッ!」
狂犬のように叫び散らかすタイガの目が、宿儺を捉える。銀色の長い前髪から一瞬だけ覗いたその瞳を見た時、宿儺の背筋に冷たい汗が流れた。
(お前……)
タイガの姿が、一瞬で男たちの陰に隠れる。むせるような、くぐもった声が聞こえたが、すぐに静かになった。
黒い煙と甘い匂いが辺りに立ち込め、男たちの中から、ふらふらとタイガが体を起こす。先程まで嘔吐していた人間とは思えないくらい、心地良さそうな顔をして。
「タイガ……」
きっと、タイガが吸ったのはただの煙草ではない。おそらく、薬物か何かの類。
タイガが薬物に頼ることになってしまった原因は、きっと自分にある。
「……ッ」
宿儺は、海斗の体を守るように下ろした。かろうじて息はあるが、一刻も早く病院に連れていかなくては海斗の命が危ない。それは分かっている。
『戦って』
海斗は意識を手放す瞬間、勇気を見せてくれた。殴られ続けるだけだった宿儺に、戦えと言った。
海斗のためにも、タイガに向き合うためにも、もう逃げ続けるわけにはいかない。
「──行ってくる」
海斗に返事をするように拳を作ったその時、耳をつんざくようなバイクの排気音が聞こえた。それも、一台や二台ではない。何十台もの轟音と共に、ヘッドライトの逆光で照らされた特攻服が靡く。
「イヴ、待たせてごめんッ! 招集に手間取っちまった!」
聞き慣れた声。姿を確認しなくても、宿儺には分かる。特攻隊長のヒースだ。
宿儺に犬杜埠頭倉庫の場所を知らせたヒースは、タルと共に、宿儺とは別行動を取っていた。
「新生ガッチェだかヤクザだか知らねえが、こちとら創設メンバー筆頭ガットフェローチェだッ!」
バイクを降りて、指を鳴らしながらヒースが叫ぶ。怖がりで痛いのが嫌いなくせに、これほど頼もしい味方はいない。
「……喧嘩、久しぶりだから。加減……できないかも」
その後ろから、バイクを降りて近づいてきたのはタルだった。ずいぶん数は減っていたが、二番隊から五番隊のメンバーがバイクから降り、戦闘態勢で続々と姿を見せる。
「やりましょう、総長!」
「俺ら、ずっと暴れたかったんで!」
舎弟たちが威勢よく叫ぶ。
見知った舎弟たちの姿を目にしても、タイガは据わった目を向けて黒い煙を吐き出しているだけだ。
「お前ら……」
宿儺は、額を垂れる血を指で拭って、濡れた前髪をかきあげる。
敵は本気でチームを潰す気だ。だったら自分は総長として、大事なものを守らなければいけない。
「まだ祭りは終わってねえッ! ガッチェの意地見せろッ、オメェらッ!」
ヒースの咆哮で、とうとう新旧入り交じった抗争が火蓋を切る。
人数は圧倒的に旧メンバーのほうが不利なはずなのに、双子は息の取れた連携でタテガミのメンバーたちを地面へなぎ倒していく。特に、タルの動きは異質だった。魂が抜けたようにふらふらしていたかと思えば、一瞬で敵の懐に潜り込み、ガッシリとした体つきの成人男性を、その怪力で呆気なく地面に叩きつける。
「兄貴とタルさんに続けぇ!」
舎弟たちも負けていない。しばらく見ない間にたくましくなった仲間たちの姿に鼓舞されるように、宿儺は海斗を守りながらタテガミ相手に応戦した。既に体は満身創痍だったが、皆の前で情けない姿は見せられない。
(海斗だって、見てんだ……!)
宿儺は、鈍器を手にした大の男たち相手に素早く立ち回りながら、得意の蹴りを叩き込む。
白い特攻服が入り乱れ、誰が味方で誰が敵かも判別できないほどの激しい抗争。
そんな中忍び寄るのは、白い特攻服が入り乱れた人混みの中から感じる、強烈な殺意。
それは充血した目で、ずっと宿儺を睨みつけながら移動している。宿儺が気づいた時にはもう、その気配は彼のすぐ傍に近づいていた──。
「……がッ!」
受け身も取れず、宿儺の体が壁に叩きつけられる。どん、と強く叩きつけられた体から、骨の軋む音が聞こえた。
(なんて……力だ……。人間じゃねえ、みたい……に……)
ふと、宿儺の脳裏に月桂神社での出来事がよぎる。
もし、宿儺の推理が当たっているなら、タイガをヒースたちと戦わせる訳にはいかない。
(……ま、だ、堕ちるなッ……)
震える手で拳を握って、痛みで意識を繋ぐつもりだった。
しかし、急速に宿儺の視界は狭まっていく。既に長時間のリンチに耐えてきた体は、深いダメージを負っていた。
今倒れてしまったら、ガッチェの士気に関わる。助けに来てくれた仲間たちのためにも、ここで力尽きるわけにはいかないのに──。
「タイ、ガ……」
宿儺は、その場から立ち上がることが出来ないまま気を失ってしまった。
ふらふらと頭を揺らしながら、タイガが近づいてくる。その顔からは、尋常ではない量の汗が流れていた。
「タイガッ!」
咄嗟に、宿儺を庇うように立ち塞がったのはヒースだ。傷だらけの体で、それでもなお親友の前に立つ。その体は、小さく震えていた。
「タイガ……もうやめろ」
「あ〜〜〜……?」
言葉が聞こえているのかいないのか、タイガは間延びした返事をして首を傾げる。まるで、壊れた人形のように。
「こんなことしてどうなるんだよ! 余計孤立するだけじゃんか……」
両手を広げたまま、震えた声でヒースが言った。その目尻は赤くなり、既に泣きそうになっている。
「イヴにも理由があったんだよ。オメェにも分かってんだろ? ちゃんと話し合えば……仲直りできる。また一緒にバイク乗ってさ……」
懇願するようなヒースの訴えにも、タイガは低く唸るだけだ。黒い煙を口から吐き出したタイガを見て、僅かにヒースの表情が険しくなる。
何かを言いかけようとしたヒースの首根っこを掴んで、雑に退けたのはタルだ。話しても無駄だと言わんばかりに、タイガの前に進み出る。
「た、タル! 気をつけろッ……アイツの周り、何か変だ」
「……」
ヒースの助言に、タルは静かに瞬きをした。
人より少しだけ悪いものが見えるヒースとは違って、タルに特別な力はない。それでも、今のタイガの相手が、兄につとまらないことだけはわかる。
「……タル、タルタルーガ……こっちに来いよ……」
タイガは、黒い煙を吐き出しながら笑う。その声は酷く甘い。
「アンタは、人が殺せんだよ。オレと同じ側の人間だからなァ……」
タルの瞳は動かなかった。それどころか、冷たいガラス玉のような瞳で、タイガを見つめている。
「……いやだ」
それは、短くて静かな拒絶。まるで、幼い子供のわがままのように。
「キヒッ……ヒヒヒャ……」
何がおかしいのか、タイガが不気味に肩を震わせて大きく仰け反る。たっぷり吸いきった黒い煙草が、足元に落ちた。
「──じゃあ、殺してやるよ」
ゆらりと上体を起こしたタイガの目は、完全に正気を失っている……。




