【土用凪 祓いの酒で 酔いし虎】11
地面に投げ出された海斗は、霞んだ目で騒動の中心を見つめていた。既に、三十分は経っただろうか。
「ごほッ……」
吐き出した血が、地面を濡らす。殴られた場所が熱を持ち、腫れ上がってきたせいで上手く目が開けられない。
それでも……。
俯せで這いながら、鼻をすすった。痛い思いも怖い思いも、既に限界を迎えている。
たった一人で、海斗の身代わりになった宿儺は、取り巻きたちからの暴行を受け続けていたが、悲鳴一つ上げない。ただ、黙って耐えていた。
(僕、何も出来ない……)
何度も間違いを繰り返すたび、恐怖が積み重なっていく。
美燈夜に記憶を譲渡されるまで忘れていたのは、この恐怖を記憶したくなかったから。自分のために傷つく彼を見たくなかったからだ。
「う、ぐ……」
海斗は地面を這いながら痛みに喘いだ。響くのは、苦しげな呻き声と、下品な笑い声。
その中心には、あの男が居る。
「ガッチェを捨てたアンタが、何で人並みの幸せなんか送れると思ったの? なあ、イヴ」
タイガはどこまでも楽しげだった。けれど、笑っているのは口元だけ。
琥珀色の瞳には、冷たく爛れた感情が抑えきれずに渦巻いている。
「おら」
タイガの手が、宿儺の髪を乱暴に掴んで力任せに地面へと投げつける。コンクリートに叩きつけられたことで、背骨のきしむ音が響く。
宿儺が衝撃で息を詰まらせる間もなく取り巻きの男たちが押し寄せ、四方八方から腕を伸ばして傷だらけの体をがっちりと押さえつけた。
「そのまま押さえてろ」
ニタ、と笑ったタイガが拳を振り上げる。
次の瞬間、その拳が無慈悲に宿儺の顔面へと叩き込まれた。
「チームを裏切って、どんな気分? 気持ちよかった? ガッチェなんて、所詮お坊ちゃんのお遊びだったんだからなァ──!」
立て続けに振り下ろされた拳が、宿儺の頬を抉る。もはや、彼は呻き声すら上げていなかった。
見ているだけで体が震え上がり、胃の中のものをすべて吐いてしまいそうな残酷な処刑ショー。
止めなければ。助けなければ。
目の前で繰り広げられる惨劇を止めたいのに、海斗の体は鉛のように重くて、指一本すら動かせない。いくら丈夫な宿儺とは言え、これ以上の暴行を受けたら死んでしまうのに。
けれど、目の前で繰り広げられる行為の恐ろしさに、海斗の体は動かない。
ただ、タイガが提示した『一時間』が済むのを、祈るような気持ちで待つだけだった。
「遊びじゃ、ねーよ……」
「あ?」
ふいに、宿儺が呻くように呟く。それまで悲鳴ひとつ上げなかった宿儺が、羽交い締めにされたまま掠れた声で呟いた。
「……遊びじゃねーんだ」
コンクリートに、ぽたぽたと鮮血が滴る。それは雨のように、涙のように悲しい音。
「ガッチェは、俺にとって……大切な居場所だ。お前らを忘れたことなんて、ねーよ」
宿儺の声は掠れていたが、それでもタイガの耳に届くには充分な声量。
殴るのをやめたタイガを、青い瞳が見つめている。その瞳に、怒りは無かった。
一緒に考えた、チーム名。
四人で馬鹿みたいにはしゃいで、初めて酒を飲んだ日のこと。
初めてバイクに乗った時の高揚感と、ほんの少しの恐怖。
それら全て、昨日の事のように思い出せると宿儺が力なく笑った。
元より、ただで済むとは思っていないのだろう。どんな理由があっても、総長として、チームを抜けたケジメはつけなければいけないから。
それでも海斗は、これ以上宿儺が傷つく姿を見たくない。
「裏切って、ごめん……タイガ」
宿儺の謝罪を聞いて、タイガの肩が僅かにぴくりと震える。
やがて、今にも意識を失いそうな宿儺の眼差しが海斗へ向けられた。
「海斗も……ごめん。こんなことに……巻き込んで」
怖かったよな、と宿儺が力なく笑う。それは、きっとタイガすら知らない、粟島宿儺としての眼差し。
「……は」
タイガの喉から、空気の抜けた乾いた笑いが漏れる。それはまるで、呪いを吐き捨てるような嘲笑。
「ふざけんなよ……」
琥珀色の瞳が暗闇の中で光ったその時、タイガの手が宿儺の胸ぐらを引き上げるように掴み、そのまま力任せに地面に押し付ける。
「ぐ……!」
「何、悦っちゃってんの?」
顔を顰めた宿儺を見下ろす虎は、狂ったように笑っていた。
血にまみれた手が宿儺の髪を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせる。
「謝れなんていつ言った」
その目は、怒りで気が狂いそうにも、笑いをこらえているようにも見える。
けれど宿儺には分かっているのだろう。だから、タイガの全てを受け入れるように防御の姿勢すら取らない。
「お望み通り……ぶっ殺してやるよ」
タイガがポケットに手を入れる。
その瞬間、海斗の脳裏によぎったのは、何度目かのループで彼の死因となったサバイバルナイフ。
「宿儺、くんッ……」
彼は、いよいよ宿儺を殺す気だ。
夢を見るだけの力では、彼を助けることは出来ない。けれど、何度も刺された時のあの感覚に比べたら、今の怪我なんて大したことないじゃないか。
初めて出会った時、彼は海斗を助けてくれた。いつも傍にいてくれた。
これを、現実にしなければいけない。
数え切れないほど続いた死を、美燈夜の犠牲で繋いだ記憶を無駄にしないために。
「なッ……!」
体が、勝手に動いていた。海斗は、全身を使ってタイガの背中にしがみつく。どこにそんな力が残っていたのかは分からない。ただ、夢中でタイガの自由を奪っていた。
「宿儺くんにッ……手を出すなッ!」
羽交い締めにするように、海斗がしがみつく。髪を引っ張られても、肘で殴られても海斗はタイガの体を離さない。そんな海斗を、宿儺がぼんやりとした瞳で見つめていた。
「かい、と……」
「負けちゃ、ダメだよッ!」
なりふり構わず、海斗が叫ぶ。
「僕の大好きな君はッ……誰より強いんだッ! だから……戦って!!」
悲痛な声が倉庫に響く。しかし、その拘束も長くは続かなかった。
「かは……ッ!」
海斗の頭に鈍い衝撃が走る。星が散るような痛みで両手を離した海斗の頭を、タイガが殴りつけた。
地面に倒れ込みそうになった体が、思い切り蹴り上げられる。
「てめえが……イヴの何を知ってンだよ。なあ!?」
頭を守るように蹲る海斗を、タイガは容赦なく何度も蹴りつけた。それは取り巻きたちも引くほどの、異常な凶暴性。
「死んどけ……クソカスがッ!!」
発狂したように、タイガが叫ぶ。
ポケットに入れていたナイフを、海斗めがけて勢いよく振り上げたその時だった。
「よそ見してんじゃねーよ」
耳元に聞こえる、掠れた声。タイガが動きを止めた瞬間、こめかみを叩き割るような、強烈な回し蹴りが炸裂する。
「が、はッ……」
かつて、イヴローニュの蹴りをマトモに受けて、立っていられた者は誰一人として居なかった。あのタイガでさえも。
宙を舞って、勢いよくタイガの体が横転する。からん、とナイフが乾いた音を立てて地面に転がった。
「はー……」
その間に、宿儺は肩で息をしながらゆっくりと立ち上がる。
その目が、海斗を見つめて少しだけ微笑んだ。
「ありがとな、海斗」
海色の瞳には、怯えも恐れもない。血まみれで痛々しい姿なのに、海斗はそんな宿儺を綺麗だと思った。
何度も夢で見た青い瞳。初めて助けてくれた日のこと。学校で見せる笑顔も、シャンプーの匂いがしたあの夜のことも、まるで昨日のことのように思い出せる。
その中でも──。
「やっぱお前、超かっこいい」
そう言って、はにかんだように笑う今日の宿儺はとびきり綺麗だ。
宿儺くんこそ、と答えた声が宿儺の耳に届いたかは分からない。弱々しく笑った海斗は、糸が切れたように意識を手放した。




