【土用凪 祓いの酒で 酔いし虎 】9★
「大切な人に裏切られた苦しみ、痛いほど分かります」
身も心も不安定になったタイガに囁いたのは、全てを肯定する声だった。
彼のコードネームは、ロト。伏見会の命令でタイガの目付役を自称している少年。
しかし、タイガはそれが嘘であると知っていた。伏見会の調べで、彼の本名も家柄も、全て把握している。
何が狙いかは定かではないが、自分の傍に置いておけば怪しい動きをすることもないし脅威もないだろうと考えていた。
「イヴローニュはチームを裏切ったんです」
「……」
まるで洗脳するように囁くロトに、無気力にマットレスの上で仰向けになったまま、タイガがぽつりと消え入りそうな声で何かを呟く。けれど、夢中で喋るロトの耳には届かない。
「やはりガッチェの総長に相応しいのは、タイガさんしか居ませ──」
ロトが続けようとした時、おもむろに上体を起こしたタイガによって、勢いよく顔を殴られる。
「がはッ──」
続けて、タイガはよろめくロトの胸ぐらを掴み、今度はハッキリと聞こえるように顔を寄せた。
「次喋ったら殺すって言ったんだけど、聞こえなかった?」
顔を覗き込むように見つめられ、ひゅっ、とロトの口から引きつった吐息が漏れる。
タイガは、すぐにその体をマットレスの下に投げ落とした。
「ぎゃッ──!」
鈍い音と共に、ロトの背中がコンクリートの床に激突する。受身を取ることもできなかったせいか、激痛に顔を押さえたまま体を震わせていた。
「ぼ……僕、ゴホッ……」
ロトは、鼻血を垂らしながら充血した眼差しを送る。あまりの痛みで眼鏡が割れ、涙すら滲んでいた。
彼の着ている制服は、都内の名門校。親に殴られたことすらないだろう。
「僕はッ……タイガさんの力に、なりたくッ、て……」
意地でも本性を出さないロトに、タイガは冷ややかな視線を送る。
ロトは震える手で、ズボンのポケットから小さなフィルムケースを取り出した。ケースの中では、黒い百足が無数の脚を蠢かせている。
「はあ……はあッ……」
ロトは、まるで何かに急き立てられるように、その百足にライターで火をつけて、香炉の中へ閉じ込める。
百足の体から立ち上る黒い煙が辺りに広がり、タイガの肺を満たすまで時間はかからなかった。
「……」
妙に甘ったるい匂い。視界がボヤけ、天地が逆転したような、嫌な感覚。けれどほんの数秒で、タイガの体はその違和感を受け入れていた。
違法薬物、あるいは得体の知れない呪いの類であることは明らかだ。
「さ──さすが、タイガさん」
ロトはタイガの反応を楽しむように、血まみれの顔で笑う。
「あ……あなたはこちら側の人間なんですよ」
「……何が目的だ?」
タイガが、感情を殺した声で尋ねる。
「僕たちを、受け入れて欲しいだけです。タイガさんが家族になってくれれば、狐輪教はもっと大きくなれる」
「は……」
タイガは忌々しげに口元を歪め、香炉を見つめたまま黙っていたが、不意に髪をかきあげて言った。
「トラの狩りの成功率って──どれくらいだと思う?」
それは、突然の質問。タイガの気まぐれなクイズタイムだった。ロトが、小さく息を飲む。
トラは、ライオンよりも狩りが得意とは言えない。成功率は、せいぜい10%から20%といったところ。
しかし、タイガが求めている答えはそういうことではないはずだ。
「ひゃ……100%、です」
これは試しているのだ。ロトの覚悟を。猛獣を従えるに相応しい存在か否かを。
「トラとライオン、戦ったらどっちが勝つ?」
タイガは表情も変えずに尋ねた。どうやら、先の質問の答えは合っていたらしい。
今回の問題は──状況次第ではあるが、トラが有利だ。しかしタイガが求めているのは、そんな単純な答えではないだろう。
「……タイガさん、です」
ロトの指先は、小さく震えていた。畏怖していたのだ。伏見虎河という男の存在に。
やがて──長い長い間を置いて、低く笑うような吐息が聞こえる。
「……良いぜ、踊ってやるよ。しばらくはアンタの手の上で」
その返事を聞いたロトは空気を震わせながら頭を垂れて、安堵のため息をついた。その唇は、ニタリと引きつっている。
それはタイガを嘲笑うようにも、計画通りに事が進む喜びを隠しきれない笑みにもとれる表情。
「ただ──」
ふと、タイガが呟いてマットレスの上から降りる。抵抗する間もなく、ロトの胸ぐらが掴まれた。
「飽きたら殺すから」
視界いっぱいに、タイガの琥珀色の瞳が映る。その一言で、顔中に脂汗を滲ませたロトを舐めるように見つめたタイガは、にこりと満面の笑みを浮かべた。
タイガは乱暴にロトの胸ぐらを手放し、満足そうにマットレスの上に横になる。
香炉から立ち上る甘い匂いは、いつまでも倉庫の中に充満していた。




