【土用凪 祓いの酒で 酔いし虎】7
蒸した空気に包まれた暗闇の中で、橘海斗はゆっくりと目を覚ます。そこには、白い特攻服を着た複数の男たちが立っていた。彼らは鉄パイプに釘バット、どれも殴られたら軽傷では済まないものばかりを手にしている。
「よお〜、オタクくん。気分はどう?」
ぼやけた視界の先で、マットレスの上に腰掛けた少年が言った。まるで悪意など微塵も感じさせず、人懐っこく笑う少年。
──タイガ。
海斗の心臓が、ぞくりと跳ねる。
彼が何度も自分を殺し続けてきたことを、海斗は今度こそはっきりと思い出せる。美燈夜の力によって、封じられていた記憶が解放されたからだ。
海斗を見下ろすその猫のような瞳は、まるで虫を弄ぶ子供のように無邪気で──そして、暗く深い憎悪が秘められている。その手には海斗のスマートフォンが握られていた。
「僕の、スマホ──返せよ……」
か細い声を遮るように、四方から腕を掴まれて床に押し倒されると、体がねじれるように痛んだ。
タイガは、にこやかに笑いながら海斗に近づいてくる。その歩みはゆったりとしていて、まるで獲物を弄ぶ虎のようにしなやかだった。
「橘海斗。東妖高校の一年生で家は橘総本家。家の間取りは、二階の南側がアンタの部屋」
当たってる? とタイガが首を傾げて笑う。その台詞は、幾度となく耳にしてきた悪魔の挨拶。
「何で、僕を狙うの……」
海斗が震えた声で尋ねる。タイガは、男たちの一人からバットを奪い、ぶらぶらと振りながら首を傾げた。
「さあ? 何でだっけ」
タイガは、バットを構えて軽く素振りしながら、とぼけた口振りで答える。びゅんびゅんと、空気を切る音が耳に響いた。
「アンタを殺して、イヴに見せつけてやりたかったから──かな」
次の瞬間、タイガが海斗の顔面に向けてバットを振りかぶる。海斗の脳裏にこれまでの記憶がフラッシュバックした。
バットが振り下ろされ、鈍い衝撃と共に染まる赤。鼻の骨が砕ける音と、耳障りな笑い声の記憶。
反射的に、海斗は地面に体を伏せる。
「へ〜?」
タイガは、そんな海斗の反応を見てにっこりと笑った。しかし次の瞬間、海斗の腹が無慈悲に蹴りあげられる。
「が……!」
鈍い衝撃が腹を突き破り、内臓が潰れるような感覚。肺が圧迫され、瞬間的に喉の奥からせり上がる酸っぱさを感じながら、海斗は強く歯を食いしばってどうにか意識を繋ぎ止めようとする。
しかし、即座にタイガのかかとが背中へと振り下ろされ、骨が悲鳴を上げた。
「あが……ッ」
体を丸めて激痛に耐える海斗を見下ろして、タイガが握ったままのスマートフォンを操作する。
一体何をする気なのか──答えは決まっている。録画をして、彼に見せつけるつもりなのだ。
「や、やめッ──」
痛みに喘ぐ海斗の声は、言葉にならない。
タイガは、見せしめのように海斗の体を地面に突き飛ばした。
「これ、ちゃんと撮れてんの?」
「いいっすよぉ、タイガさん」
取り巻きたちが下卑た声援を送る。そのリクエストに応えるように、タイガは海斗を殴り飛ばした。
「今からコイツ殺すから。止めたきゃ死ぬ気で探せよ、イヴ」
そう言って録画を終えたタイガは、映像を確認してポイッとスマートフォンを投げ捨てる。冷たい琥珀色の瞳が海斗を見下ろしていた。
(殺される……殺される、殺される殺される殺される殺されるッ──)
恐怖が身体を支配する。震えが止まらないのに、タイガから目を離すことが出来ない。
やがてタイガは、ふっと笑って海斗から目を逸らした。
「あれあったっけ、ファニーフォックス」
「どうでしたかね。今朝キメちまったんで、在庫残ってるとは思うんスけど」
ヘラヘラと舎弟が笑う。タイガは、そんな舎弟の背中を足で蹴飛ばすと、ゆったりとした足取りで奥の部屋へと消えた。それも、舎弟たちも一緒にだ。
まさか、こんなに早く隙を見せてくれるとは思わなかった。海斗は、弾かれたようにスマートフォンに飛びつく。タイガに放り投げられたせいで無惨にも画面が割れていたが、そんなことを気にする余裕などない。
震える手でRAIINのアプリを立ち上げた海斗は、宿儺に助けを求めるように文字を打ち込んでいく。
「は、はひゅッ……」
指が震えて上手く文字が打てない。ガチガチと体を震わせながら、必死に言葉を作っていくが、焦燥がさらに手の震えを悪化させる。
「早く、宿儺くんに伝えなきゃいけないのにッ……」
「何を伝えんの?」
ぞわ、と背筋に悪寒が走った。振り向く間もなく、タイガが背後からスマートフォンをひったくる。画面を一瞥し、すぐに興味を無くしたように後方に放り投げる。
「さーて」
海斗の体を跨ぐように、煙草を咥えたタイガが立ち塞がる。その手には、拳銃が握られていた。
海斗の口から、悲鳴にもならない空気が情けなく零れる。
「震えてんじゃん。怖いんだ?」
タイガが喉奥で笑う。その声は腹が立つくらい優しくて、チョコレートのように甘い。
いつ、彼の気分で殺されるか分からない恐怖が、常に海斗の中にあった。
(こ、これまでのループでも……コイツの行動パターンは全然読めなかったッ……)
彼は、ふとした思いつきで呆気なく海斗を殺す。かと思えばダラダラと一時間以上世間話をしてみたり、突拍子もない行動を取り続けていた。
その中でも特に厄介だったのは……。
「クイズやんない? オタクくん」
タイガは機嫌良さそうに言った。心臓が高鳴る。答えを間違えたら──いや、タイガのことだ。答えても殺されるかもしれない。
「世界最大のネコ科の動物って何か知ってる?」
ふうっ、と煙草の煙を海斗の顔面に吹き付ける。海斗は呼吸をするのも忘れてタイガを見上げた。
「っあ、アムール、トラ……?」
「正解」
簡単すぎか、とタイガが笑う。
以前は、質問に答えられなかっただけで胸に穴を開けられた。ファニーフォックスとやらをキメて、よほど機嫌がいいのだろう。
「古代エジプト神話に出てくる、ライオンの頭をした女神の名前は?」
「せ、セクメトッ……」
間髪入れずに海斗が答える。
どこで役に立つか分からないオタク知識が、初めて命を繋いだ。ありとあらゆるアニメやゲームに触れているため、一般人よりも神話の神々や悪魔の名前には詳しいと自負している。次も同じ問題ならば、だが……。
「次は……そーだな」
タイガはニヤリと笑って、突然拳銃を海斗の口の中に突っ込んだ。
金属の感触が、舌の上を滑る。冷たいはずなのに、火傷をしそうなほど熱い。粘膜を切ったのか、口内に鉄の味が広がった。奥歯に銃口が当たるたび、全身が粟立つ。
「ふぐ……うッ……」
恐怖と苦しさで呻く海斗のことなどお構い無しに、タイガは銃身をぐるりと回す。冷たい銃口が、歯列をなぞった。
「うさぎの歯って、何本あるか知ってる?」
「に、にゆうはひッ……」
海斗の目尻に涙が浮かぶ。タイガは、正解、と笑って煙草を口から離した。
「じゃあさ──オタクくん、これは知ってた?」
おもむろに、海斗の耳元に唇を寄せたタイガが喉の奥で笑う。
「イヴローニュとは、どういう意味の日本語でしょう?」
この質問に、何の意図があるのか。
海斗の呼吸は自然と上がっていた。肩を上下させる海斗に、タイガの手が添えられる。
「オタクくん、深呼吸ぅ」
「ひゅ……ひゅッ……」
言われるがままに、海斗は浅く息を吸う。酸欠でどうにかなりそうだった。
答えなければ、殺されてしまう。
「……い、イヴローニュの意味はッ……よ、酔っ払い……」
震えながら答える海斗に、タイガは僅かに目を丸くした。ふうっと吐き出したその煙は妙に甘ったるくて、海斗の嫌いな匂いをしている。
「オタクくんさぁ」
タイガの手から煙草が落ちる。琥珀色の瞳が海斗の顔を覗き込んだ。
「知ってた? アイツが暴走族の総長ってこと」
反射的に海斗の肩が震える。タイガはにっこりと笑った。そっかそっかぁ、と笑顔で言いながら海斗の頭を撫でる。
「困るんだよな、アイツで友達ごっこされるの」
それはまるで意中の相手を口説くような、甘く優しい声。だがその瞳には、あたたかさのかけらもなかった。




