【時計草 未来照らすは 夢花火】11★
空は、夕闇に染まりつつあった。長く伸びた影がアスファルトの上で静かに揺れている。
住宅街の路肩には二台のバイクが停められており、傍には二人の少年がいた。どちらも特攻服を身にまとい、その純白は夕闇の中でも凛と輝いている。
一方のバイクはどうやら調子が悪いらしく、ピンク色の髪をリーゼントに固めた少年が、黙々と工具を操っていた。彼の指先は慣れたものだったが、その動きにはどこか焦りがある。もう一人の少年は、バイクに寄りかかりながら、伏せ目がちに足元を見つめていた。
薄暗くなった住宅街には誰の姿もない。きっと皆、祭りに行ったのだ。
今日は、月桂神社が一年で一番賑わう日だから──。
「アイツら、総長の手がかり掴んだのかもな」
ピンク髪の小柄な少年──因幡敦がくぐもった声で呟く。油汚れで黒ずんだ白い特攻服を何度も捲りあげている。右目尻にある泣きぼくろが特徴的な少年だ。
ヘルメットを片手に抱えて、バイクに跨ったまま黙っているのは、緑色に染めた長い髪に黒のメッシュを入れた長身の少年──弟の聖。唇の左下にあるほくろと下唇に開けたピアス。敦とは正反対の静けさを纏い、感情の起伏を一切感じさせないその眼光が、彼の異様な存在感を物語っている。
全く似ていない。しかし、彼らは双子だ。
「……殺す?」
「殺さねーよ! オメェはすぐそうやって物騒なこと言う!」
敦は慌てたように顔を上げると、唇をへの字に曲げて作業を続けた。そんな兄を見つめていた聖は、やがて鈍重な獣のように、ゆっくり視線をバイクへ向ける。
「でも俺は、足をつけずにちゃんと始末できるけど」
「──ッ!」
その言葉を、最後まで言わせたくなかったのだろう。勢いよく立ち上がった敦が聖の口を片手で塞ぐ。
「やめろって言ってんの。兄ちゃんの言うこと、聞けないのか?」
敦が怒った顔で言う。その眼差しは小さな子供を窘めるようにも、懇願するようにも見えた。
聖は黙ったまま敦を見つめていたが、やがて自分よりも背の低い兄の頭にそっと手を置く。時間をかけて整えたリーゼントを崩さないように。
「あっちゃんを泣かせるのは嫌だ。でも、もしアイツがあっちゃんを泣かせるなら、俺が殺してあげる」
聖が言い終えるや否や、弾かれたように敦が聖の体を抱きしめた。まるで、彼の中から出てくる凶暴性を抑え込むように。
「こーき、それ以上言ったら、兄ちゃん本気で怒るぞ」
聖の体にしがみついたまま、敦がくぐもった声で言った。背の低い双子の兄を見下ろす瞳は、感情の見えない漆黒が渦巻いている。
やがて、聖は大きな体で敦の体を強く抱き寄せた。普段は無表情な聖が、まるで幼い子供が甘えるかのように、敦の首筋へ顔を埋める。
「──あっちゃんに怒られるの、嫌。でも、俺から離れたら、もっと嫌」
敦は知っている。弟は、怒られたくないから従っているのではない。『兄が自分から離れるなら全てを壊してしまおう』と、本気で考えている。
聖のことは大切だ。喧嘩の弱い自分が守らなくても弟は強い。けれど、倫理観が人より欠如している。
だからこそ、兄である自分が守らないといけない。聖の檻で、居なければならない。
あの日のように。
「ガッチェは、もう元に戻んねえのかな」
ぽつりと敦が呟く。聖がどんな顔をしているのかは分からない。ただ、首筋に顔を埋めたまま沈黙していた。
「総長──何でオレたちの前から居なくなったんだろ。何で、チームを捨てたのかな……」
俯いたまま敦が言った。そんな兄から視線を逸らした聖の瞳が、夏空を映す。
空はまだ青を残しながら、ゆっくりと漆黒へと沈んでいく。西の空に滲む橙色は、名残惜しげに水平線に寄り添い、夜に溶けようとしていた。
蝉の声は相変わらずうるさくて、本格的な夏がそこにある。湿度を多く含んだぬるい風が、昼の名残を残して彼らに知らせるのだ。逢魔が時はもうすぐだと。
「あの日も、夏休みの夜だった」
聖がぽつりと呟く。それは二人にとって忘れられるはずもない、ひと夏の冒険のこと。
あれから、みんな変わってしまった。
聖も、敦自身も。
「あっちゃん、俺を見て」
聖の声に顔を上げた敦の唇に、冷たいものが触れる。聖の下唇に開けられたリング状のピアスが、敦の唇を撫でていた。
「何も変わってない。俺は」
押し付けられるピアスに熱がこもる。まるで暗示をかけるような聖の声に合わせて、ピアスは柔らかな唇の上を往復した。
「こー、き」
普通の兄弟は、こんなことなどしない。
分かっているのに、止められない。逃げられない。弟を諌めることすらも。
怯えたような目で見つめる敦を、強烈な独占欲で渦巻く漆黒の瞳が見下ろしていた。
「今も昔も、あっちゃんが好き」
聖はそう言って舌先でリングを揺らす。その瞬間、敦の指先がビクッと跳ねた。唇同士が触れたわけでもないのに、敦の顔は真っ赤に染まっている。
それを見て満足したのか、聖は体を離して、愛機に寄りかかりながら子供向けの棒付きキャンディを咥えた。
「バイクのメンテ、終わった?」
「はッ──お、オメェのせいで終わってねェンだよ! バカッ!」
敦は慌てたように我に返ると、工具を片手にバイクを直し始めた。耳まで赤くなっている兄を見て、聖は少し満足そうにキャンディを舐める。
「かわいい。あっちゃん」
「う、うるせーよッ!」
聖の本気とも冗談ともつかない台詞を上擦った声で一喝して、敦はバイクの最終チェックを行う。どうやら問題なく走行できるようだ。
「よし……オレは入口を見張る。こーき、お前は裏手に回れ。もしアイツらが逃げたらとっちめられるようにな」
「わかった」
閑静な住宅街に、低く唸るエンジン音が響き渡る。不規則に跳ねながら静寂を揺るがすその音を聞いていると、敦の気持ちは不思議と落ち着いてきた。マフラーを通して荒々しく吠える排気音が心地よくて、工具を片付ける口元もゆるむ。
「タイガは、一人で死体を埋められたかな」
ぽつりと呟いた聖の声は、聞こえないふりをして。
やがて、アクセルが一つ大きく吹かされると、音はひときわ大きく弾けて闇の向こうへと消えていった。
そろそろ自分も出ようと、工具箱を閉じた──その時。空気を切り裂くようなバイクの轟音が響き渡った。
ただの通行人のものではない。エンジンを空ぶかしして、爆音を撒き散らしながら近づいてくるその数は、軽く十台を超えている。すべてが改造車だ。直管マフラーが狂ったように唸りを上げ、カウルには狐のステッカーが貼られているのが見えた。
「あ゛?」
ヘッドライトに照らされた敦が、不快そうに眉を寄せる。そこに立っていたのは、バイクを降りた男たち──鈍器を手にした暴走族だ。金属バットをアスファルトに叩きつける音、チェーンを引きずる音が耳障りに響く。中には鉄パイプを肩に担ぎ、不敵な笑みを浮かべる者もいた。
それは獲物を見つけた獣のように、敦をゆっくりと包囲する。どうやら、逃がしてくれる気はないらしい。
「ガッチェの特攻隊長、舐めんなよ」
敦は聖と違って喧嘩が強いわけではない。むしろ、どちらかと言うと弱い。それでも、ここで引くことなどできなかった。
彼はいつだって、ガットフェローチェという誇りを背負っているのだから。




