【時計草 未来照らすは 夢花火】8
整備店から離れた美燈夜は、いちご味の棒付きキャンディを咥えて未知の土地を探索する。
桜砂という地は坂が多く、あちこちに階段が設けられていて鍛錬にもちょうどいい。
蝉の声が、どこまでも耳にまとわりついてくる。空気を焼き尽くすような日差しから肌を守るため、日傘を傾けて美燈夜は進んだ。狭い路地は入り組み、右へ左へと曲がるたび、どこへ向かっているのかもわからなくなる。
まるで、何かに導かれているように。
ふと、行き止まりかと思った先に、ひっそりと階段が待ち構えていた。古びた石段は年月に削られ、苔が這い、湿り気を帯びている。あまり人が利用しないのだろう。
ふいに、蝉の声が止んだ。
美燈夜が足を踏み出した先は、鬱蒼とした竹林だった。細く長い竹の葉がざわめき、先ほどまでの喧騒が嘘のように、沈黙だけが支配した場所。陽の光はほとんど届かず、まばらな影が地面に落ちている。
──そこに、鳥居があった。
朱塗りの塗装は剥げ、黒ずんだ木肌が長い歳月を物語っている。
どこまでも、どこまでも静寂が支配する空間。耳を澄ませば、竹の葉が揺れる音と鳥の鳴き声がかすかに聞こえるだけの、清廉な空間。
「見事だ……」
美燈夜はぼんやりと鳥居を見上げながら呟く。母とよく歩いた庭を思い出して懐かしい。
あの頃は、まだ母も元気だった。幼い美燈夜の手を引いて、優しく微笑み返してくれた、愛しい母。
母が病に伏せてからは外に出ることも出来なくなり、美燈夜は何とか母に喜んでもらおうと外の世界の話をたくさん聞かせた。
それももう、何ヶ月も、何千年も昔のことのような気さえする。
「……あの!」
いつの間にか時間を忘れて、炎天下の中で鳥居の前に立っていた美燈夜を心配したのか、年若い男が声をかけてくる。年は海斗よりも少し上だろうか。手には箒を持っていた。
「何だ貴様」
「一応、神社の息子だよ。まだ階位も貰ってないんだけど」
あはは、と男が笑う。スポーツ刈りで、人の良さそうな顔立ちだ。
「大丈夫? 今日は暑いよ」
「問題ない。向こうに行け」
そう言ってはみたものの、現代の暑さは美燈夜の想像をこえている。日傘の下で顔を真っ赤にしている美燈夜を見た男は、遠慮がちに日陰を指した。
「良ければ、あっちで麦茶とか」
「……悪くねェ」
美燈夜が答えると、男は少し嬉しそうな顔をして彼女を家の縁側に招いた。
彼は桜砂神社の宮司の息子で、大学に入ったばかりだという。名前はタケルと言った。
「何か、悩み事? ずっとうちの鳥居を見てたけど」
面倒な奴に声をかけられたな、と美燈夜は内心舌打ちする。
話したところで理解できるはずもない。美燈夜と彼では生きる時代が全く違うからだ。けれど、何故かこの男は美燈夜を放っておいてくれない。
「我は──」
全く知らない相手だからこそ、話せることもあるのかもしれない。
美燈夜は、少し迷ってから口を開いた。
長い旅の途中であること。旅が終わるまで帰れないこと。多くは語れない美燈夜の話を、タケルは黙って聞いていた。
美燈夜は、話の合間にタケルの母が持ってきてくれた冷えた麦茶を飲む。頭が少し冷えた気がした。
「……それで貴様は何なんだ」
「あー、ごめん! ずっと鳥居を見てた君が……何か、寂しそうで」
タケルの顔が赤くなっていくのを見て、美燈夜が怪訝そうに首を傾げる。
「……ほっとけなかった」
「ふ……」
なるほど、と美燈夜は思った。
照れるわけでもなく、嫌悪を示すわけでもなく、不敵に笑う燈夜を見て、タケルは顔を赤くしながら慌てている。その勢いで縁側に麦茶を零してしまい、さらに慌てふためく姿は何とも間抜けで憎めない。
美燈夜は、気づいていないふりをして麦茶を一気に飲み干す。
「和歌のひとつでも嗜んで来い。不敬だぞ」
「べ、勉強する!」
タケルは床を拭きながら頭を下げた。
それでも彼は、美燈夜の傍から離れない。
学校ではこんなことを習っているとか、本当は野球選手になりたかったと一方的に話してくる。緊張しているのは明らかだ。
その内に美燈夜も、一言二言タケルに返事をするようになり──いつの間にか、彼らは時間を忘れて話していた。
(変な奴……)
弟のような海斗とは違うタケルの存在は、友や、美燈夜の身辺を守る者たちとは少し違う。
どちらかと言えば──。
「貴様、我と話していてそんなに楽しいか?」
「──楽しいよ」
タケルの頬に西日が差して、赤く染まっている。いつの間にかずいぶん話し込んでしまったようだ。美燈夜は縁側から離れて日傘を差す。
「そろそろ帰る」
「お、送らせて」
タケルが慌てたように立ち上がると、空になった麦茶のグラスをトレイに乗せていた母親が小さくガッツポーズをしているのが見えた。美燈夜には、その意味がよく分からない。
「十万億土の旅、途方もない時間と距離だけど、君ならきっと無事に終えられる」
タケルの力強い肯定は、今の美燈夜にとって好ましい。いつか本当に、旅の終わりが来るのだと、ほんの少し希望が持てる。
「……じゃあな」
そう言って、鳥居の下を通る美燈夜を見て、タケルが名残惜しそうに手を伸ばしかけた。しかしその手は、箒をぎゅっと握りしめることで思い留まる。
「また、来てくれる? 冬には夜祭りがあって、良ければ……」
一緒に、と呟いた声は美燈夜には聞こえなかった。
「それは楽しみだな。……そうだ」
美燈夜は、ふと気になってタケルに尋ねた。この神社に祀られている神の名を。
「そ、そんなに気になる? ……俺より?」
「まあな」
素直すぎる返答に、タケルが少し残念そうに肩を落とす。しかし、自分の家に興味を持ってもらえたことは嬉しいらしく、まじまじと鳥居を見上げた。
「今でこそ桜砂神社という名前だけど、昔は違ったんだって。うちの神様、ちょっとマイナーすぎて改名したんだ」
ついでに社号も変えて親しみやすくしたらしい、とタケルが言う。『マイナー』の意味が分からない美燈夜は不思議そうに首を傾げていた。
「本当の名前は、紫菫神宮──海神天皇の妻にして旅の安全を願う神、紫菫皇后の御霊を祀ってる」
タケルの返事を聞いて、美燈夜はぼんやりとした顔で鳥居を見上げる。
ああ、そうか。ここは母を祀る場所。だから懐かしい感覚がしたのかと。
「皇后の娘は……美燈夜は、どうなった?」
「ええと……えっ?」
タケルは何か考えているようだったが、何故か怪訝そうに首を傾げた。美燈夜はすぐにかぶりを振って『いや、いい』と告げる。
それ以上言葉を続けるのは、何となく避けた方がいい気がした。
タケルは、特に何も考えていない風を装っている。だから、美燈夜も気付かないふりをした。
いつか彦右衛門が言っていたように、海神美燈夜姫は海に身を投げて死んだことになっている。それ以降、存在しなかったことになっているはずだ。
しかし実際の歴史がどうあれ、美燈夜は常夜香果を持ち帰る。母の病を治すために。
(母上……)
思い詰めた顔で沈黙してしまった美燈夜を見て、タケルが何かを言おうとして口を開ける。
その瞬間、目の前に不自然な砂嵐が走り、ブツッと意識が途切れた瞬間──。
美燈夜は、再度飛び起きた。




