【夏の日に 迎えしあの子の 恨み節】3
「お疲れ様でした」
黒い血の飛び散った鬼道家当主の部屋の中で、狐面の女性が淡々と告げる。その中心に居るのは鬼道藤之助と巨大な体を持つ白猿だ。
「別に……あんなの、あと百匹来ても余裕だけど」
「ケケッ、息上がってるじゃん」
小さく肩で呼吸を整えている藤之助を、大猿がからかう。しかし藤之助の実力を認めたのか、大猿がそれ以上意地悪を言う様子はない。
「は? 黙れ。呪うのって結構疲れるんだから」
「……ふーん? 疲れるだけで済むんだ」
大猿は少し目を見張り、意外そうに返事をすると、思い出したように個包装された小さなチョコ菓子を爪でポンと弾いた。それはタイミングよく藤之助の手の中に収まる。
「ケケッ」
「……ふん」
労いの意味だろうか。藤之助は鼻を鳴らしてその甘ったるいチョコ菓子を口の中に放り込んだ。そんな藤之助に、チー太が甘えてすりついてくる。
「ち〜!」
「怖がらせてごめんな、チー太。お前が無事で良かった……」
頬にすりすりと体を擦り付けているチー太を指先であやしながら、藤之助はようやく心からの笑みを見せた。
「お師匠様……来てくれて嬉しい」
「かわいい弟子のピンチだしね。まあそれだけじゃないんだけど」
いつの間にか狐面を外していた仙北屋江都は、杏珠の頭を軽く撫でてから松蔭に向き直る。
「私がここに来たのは──」
「ねえ、早くボクのこれ外してよ。約束したよね?」
空気を読まずに大猿が口を挟んだ。江都は『ああ、はいはい』と言って造作もなく指を鳴らすと、胸の釘が溶けるように消えていく。その体は醜い大猿から一転、褐色肌の美少女に変わるのだった。
「はー、やっぱ人間の体が一番かわいい。あんなの毛深くて気持ち悪いだけだもんネ」
機嫌良さそうに自分の顔をさすったり両手を見つめている美少女を尻目に、江都が話を続ける。
「話を戻すよ。私がここに来たのは、この子を柚蔵の計画から守るため。狐輪教には金で雇われた身だけど、給料以上のことはしてあげたからね」
江都はそう言いながら杏珠の頭を撫でた。
狐輪教本部で捕らわれた美少女、猿神を救ったのも彼女だ。江都は猿神の胸に打ち込んだ呪いを解くことを条件に、鬼道家までやってきたという。
「柚蔵の計画って何だよ」
藤之助が尋ねるが、松蔭は黙ったままだった。話すべきか決めかねているような重苦しい表情を浮かべている。しかし、藤之助の肩の上でチー太がか細い声で鳴いた時、観念したのかおずおずと口を開いた。
「次期鬼道家当主として、鬼道家を最も不動で、強大なものにするため……狐輪教と手を組んでいる……」
「それだけじゃないでしょ?」
言いなよ、と江都が促す。
松蔭は深く眉間に皺を刻んで震えたため息をついた。
「杏珠様に……自分の子供を産ませると。かつて、兄上様が妹君にしたように」
藤之助の全身が一瞬で熱くなるのが分かった。きっと杏珠は知っていたのだ。そうでなければ、毎日のように柚蔵の部屋に行ったりしない。
「そんなこと……」
「させるわけないでしょ、気持ち悪い」
藤之助の台詞を丸ごと代弁するように江都が言った。
「狐輪教の目的は、人類の救済とは名ばかりの妖怪大復活。信者の体をお母様とやらの餌にして、定期的に殺し合わせてる」
江都はそう言って、腰に巻いた小瓶を手に取った。中には百足が蠢いている。藤之助は思わず吐き気を催して口に手を当てた。
「仙北屋の秘術、禍蟲。コイツは御先祖の強い心臓を少しずつ食わせることで薬にもなるし毒にもなる仙北屋のとっておき。あんたも食べたことあるでしょ?」
江都の問いかけに、藤之助は何度も頷きながら顔を逸らした。かつて仙北屋家で修行をしていた時、呪いに耐性をつけるために蟲を食わせられたことがある。仙北屋の呪いは使用者へのリスクが大きく、特に仙北屋の人間でない藤之助や杏珠が学ぶのは簡単ではないとされていた。
「柚蔵は狐輪教の信者でそれをやろうとしてんの」
蟲の入った小瓶を仕舞う江都の視線が、ふと部屋の入口に向けられる。
「なるほど、お前の読みは当たってたってことだな、紅葉」
そこに居たのは眠そうな顔をしたぼさぼさ頭の男と、長身の坊主。藤之助はひと目で、それが鬼道家の天才陰陽師、鬼道紅葉であると分かった。
「よう、老いぼれ」
「……元気そうだな、紅葉」
松蔭と短く挨拶を交わした紅葉は、すぐに江都に視線を送る。
「関東に帰した兄貴と連絡が取れねえ。あの腐れムクドリに手こずってるのかもな」
「マジ? あの柊がやられるわけないでしょ」
江都が怪訝そうな声を上げると、紅葉は至極面倒くさそうに眉を寄せた。
「だりぃ……オレもンなこと思ってねーよ」
江都から渡されたチョコ菓子をちゃっかり受け取って口に放り込んだ紅葉の赤い目が藤之助たちを一瞥する。
「で、兄貴の餓鬼はどこだ?」
「楓サンのことだからどーせまだ寝てるんだヨ。ボク、起こしてきてあげよっかなァ〜」
猿神が小馬鹿にしたように笑う。しかし、白いしっぽは早く楓に会いたいと言いたげにそわそわと落ち着きなく揺れていた。
「そ、それが……その」
松蔭が口ごもる。先程松蔭が話した通りなら、楓はもう居ない。何故なら──。
「楓さん、殺されたらしいですよ」
「はあっ!?」
父の代わりに答えた藤之助に、紅葉と猿神が揃って素っ頓狂な声を上げる。
彼らはまだ、楓の身に何が起きたのかを知らない。そして、関東で彼の友人たちが危険な目に遭っていることなど知る由もなかった。




