【夏の日に 迎えしあの子の 恨み節】2
「Zerstampfe!」
その呪詛と共に、化け物の体が地面に叩きつけられて弾け飛ぶ。その衝撃で、残された化け物たちが怯んだ。
今の化け物が本当に兄だったとして、藤之助にとってはどうでもいい。
どうせ、顔も覚えていないのだから……。
「ちー!」
「うっ!?」
チー太が突然、羽音を響かせて藤之助の後頭部に突進してくる。
嬉しそうに藤之助の顔周りを飛びながらちーちーと鳴くものだから、藤之助は調子を崩されたように後頭部を押さえた。
「チー太! 遊んでる場合じゃないんだから隠れてろってば!」
「ち〜!」
藤之助は、何故かご機嫌なチー太の体を掴んでフードの中に突っ込む。
残りの化け物は八匹だ。
「……だる。まだ朝飯も食ってないのに」
面倒くさそうに舌を鳴らした藤之助が、人差し指で化け物を指して呪いの言葉を吐く。黒い体液が飛び散って壁に幾筋もの跡を残す様子が、まるで血のように見えた。
順調すぎる。
再度悪態をつこうとした時、後方から松蔭の声が聞こえた。
「杏珠様──ッぐあ!」
杏珠と松蔭、双方の体が二匹の化け物に捕らわれている。松蔭はおそらく、杏珠を助けようとして捕らわれたのだろう。
杏珠に抵抗する様子はなく、全てを諦めたように瞼を伏せている。
「何やってんだッ!」
即座に、杏珠を捕らえた化け物へと呪いの照準を合わせようとする藤之助だったが、それを遮ったのは杏珠だった。
「私より、松蔭様を……」
杏珠は伏せ目がちに呟く。感情を捨てた赤い瞳が、暗く輝いていた。
しかし化け物の手に力がこもり、みしりと彼女の体が軋む音を立てると、その声がか細い悲鳴に変わる。
痛みを感じないはずがない。感情が無いはずがない。
だって、彼女はこんなにも──。
「早、く……松蔭様を……」
「ふざけんな!」
藤之助が叫んだ。
迷わず化け物に呪いの言葉を吐こうとするが、さらに増えた化け物が松蔭を食べようと迫っている。
『パパ……』
『オトウサアン』
化け物たちは次々にそう言って松蔭を取り囲んだ。舌打ちをして、松蔭に近づく化け物を呪い殺そうとする藤之助だったが、既に杏珠を捕らえた化け物は、歯をカチカチと鳴らしながら杏珠の小さな頭に歯を立てようとしている。
死を覚悟して瞼を伏せる杏珠の表情が痛々しかった。
鬼道家に翻弄されたまま終わる少女の人生。まだ、藤之助は彼女の笑顔すら見ていない。
今、杏珠を救うために呪いを使えば、救えなかった父は命を落とす。
(俺が助けるべきなのは杏珠とチー太だけだ! こんな奴、どうなったって良いはずだろ)
冷静さを保っていた藤之助の精神は、明らかに乱れていた。呪いの言葉を紡ぐための集中力すら切れてしまうほどに。
「藤之助、何をしてる……私のことは、いい。杏珠様を……」
「うるさいッ! あんたに言われなくてもッ──!!」
藤之助は、松蔭の悲痛な声を遮るように怒声を浴びせた。
(だけど、親父を見捨てたら、俺は──本当に……)
それこそ、彼が壊した盆栽のように、二度と元に戻ることはないだろう。
少女の命と、父親の命。どちらを優先したらいいのか。
冷静な心を保ってきた藤之助の顔に焦りが浮かぶ。
「Faul undzerfalle」
その時、藤之助と同じ声が聞こえて、一瞬で化け物たちがドロドロと溶けていった。
化け物から解放された杏珠の体が宙を舞い、ふかふかとした白い腕が抱きとめる。
「あ……」
それは、赤い瞳で杏珠を見下ろしていた。
彼らの前に現れたのは、全身を白銀に輝く体毛に覆われた獣。
体長は二メートル以上あるだろうか。しっぽの先まで白く、神秘的な雰囲気を纏った獣の体毛が畳の上を擦るたび、ザリザリとした音が空気を震わせた。
「……」
杏珠の手が、獣の胸には突き刺さった釘に触れた。それは深々と胸を貫いており、体毛には出血の跡が残っている。
そんな獣の毛を、杏珠の指が労わるように撫でた。ほっそりとした指が、白い毛並みに沈む。
彼女の存在をどう認識しているのか、獣は喉の奥で低く唸り、杏珠を抱えたまま拳を作った逞しい前足で、畳を踏みしめながら近づいてくる。
「ふん」
室内に居る人間たちをぐるりと一瞥して、獣が鼻を鳴らした。
その神々しい姿を見て、使用人たちは祈るように、命を乞うように膝をついている。
しかし、藤之助は分かっていた。この獣が神聖から外れた存在であることを。
その証拠に──。
「ああ……相変わらず最悪な体。歩き方もゴリラみたいで格好悪いし顔も不細工。こんな姿じゃ、女の子とも遊べない」
流暢に人の言葉を喋って、不快そうに低く唸り声を上げた獣が不意に立ち止まる。
獣が振り返るのと、背後から妙齢の女性が姿を現したのはほぼ同時。
「お師匠、様……?」
杏珠が上擦った声を上げた。
女性は獣から杏珠の体を譲り受け、大切そうに抱き寄せる。
「よく頑張ったね、杏珠」
その一言で安らぎを得たのか、杏珠は縋り付くように女性の胸に顔を埋めた。
「江都様。何故、此処に? 仙北屋家は狐輪教と協力関係にあるはず──」
松蔭が戸惑いを隠せない様子で問いかける。女性は唇の端を上げて笑った。
「相変わらず頭固いんだから──そんなだから子供に舐められるんだよ」
女性はそう言って、アクセサリーのように腰にぶら下げていた狐の仮面を被る。その瞬間、女性を纏う雰囲気が冷たいものへと変わった。
「まだ終わっていませんよ、白猿様。手筈通りよろしくお願い致しますね」
「あーあ、はいはい」
女性の言葉と共に獣の口が耳まで裂けていくのを見て、使用人たちは悲鳴を上げながら、ひとかたまりになって避難する。
「お前からお姉ちゃんの匂いがしなかったら、とっくに喰い殺してるんだから」
ずん、と地面を響かせた白い獣が、拳で畳を押しつぶすようなナックルウォークで藤之助に近づいてくる。
「引っ込んでてよ。残りは全部ボクが殺してあげる」
地響きを鳴らしながら距離を詰めた獣が爪が化け物を引き裂いた。
背後から呪いの光が弾け、化け物の体が赤紫色をした呪いの光に包まれて腐臭と共にドロドロと溶かしていく。
「引っ込むのはあんただろ、猿野郎」
片手で前髪をかきあげた藤之助は、赤い瞳をギラつかせながら化け物に向けた人差し指から呪いの光を揺らめかせる。
「ケケ……お前、生意気。楓サンといい勝負だネ」
白銀の毛を逆立てるようにして笑った獣が、釘の刺さった自分の胸をぼりぼりと引っ掻いた。
じわ、と滲む鮮血が美しい白銀の体毛を赤く染めるが、獣が気にした様子はない。
三つの赤い瞳は、獲物を欲するように化け物たちを見据えた。




