【子守唄 命拾ひて 双人舞】3
稽古場の入口に立っているのは、鳥の巣のような髪をした青年。
死んだような目をして『だりぃ』と呟くことが半ば口癖のような男が、今はただ黙って桜太郎と対峙している。
「あなたが紅様を縛っていたから、紅様は最期まで私のものになってくださらなかった。ご自分のことを何も知らぬまま」
本当にお可哀想、と桜太郎が呟く。
足元に崩れているのは、墓守だったもの。紅葉が初めて出会った墓守の姿。
「紅様は手土産を持って鬼道家にいらっしゃるたび、外のお話をたくさんしてくださいましたが……二言目にはいつも紅葉、紅葉と……あなたの名前を口にしていたのです」
紅葉が近づくたび、足元に紅い葉で出来た波紋が浮かび上がっていく。まるで湖面を泳ぐ水鳥のように。
その両目には、桜太郎が喉から手が出るほど欲しかった鬼道家の印が鮮やかに灯っていた。
「鬼道澄真の加護も、紅様の寵愛も、何もかも手にしているあなたのことが……私はずっと──憎かった。大嫌いだった」
桜太郎の頬に黒い涙が伝う。死してようやく自分の気持ちを口にすることが出来た。良い子ではない桜太郎自身の言葉で、どれだけ紅葉を憎んでいるかを口にする。
一人の人間を狂わせるほど想われている墓守の体を見下ろす紅葉の顔は、まるで子供を褒められて気分が良いとでも言わんばかりに晴れ晴れとしていた。
紅葉を纏う冷たい風が周囲に舞い上がる。
「どうして、何も言わないのですか」
桜太郎の声色に苛立ちが滲んだ。自分など眼中にないとでも言うのか、と眉間に皺を寄せる。しかし、紅葉からの返事は穏やかなものだった。
「健康な朝を堪能してんだよ。節々も痛くねえし、霊力も充分。こんなに調子がいいのはいつぶりだ──くれない」
紅葉はその場に座り込み、朽ちた髑髏を両手ですくいあげる。
一度目は何も知らない無垢な子供が、不完全な形で墓守をよみがえらせた。
そして、今。愛を知らなかった子供が、これまで与えられたものを返すように紡ぎ始める。
「おやすみ おやすみ──ぼうやよ」
赤子をあやすように、ゆっくりと紡ぐその歌を合図にして、彼の周囲には火の粉で出来た蝶が舞い始める。
それは紅葉の歌に引き寄せられたかのように数を増やしていった。
「かあさまの こもりうたを きかせてあげる」
亡骸の眼窩に赤い光が宿り、白と交わる。それは、みるみるうちに人の体を形作っていった。
「ぼうやは かしこくて やさしいこ──」
紅葉は穏やかな声色で、語りかけるように歌い続ける。それは怪異と化した桜太郎も近づけないほど、膨大な力が濃縮された儀式だった。
「お止め下さい……もう止めて──!」
桜太郎の叫びも、彼らには届かない。
彼が初めて口にしたその子守唄は、幼い頃何度も母親にねだったもの。寝付けない紅葉のために優しく語りかけるように歌ってくれた。両頬をりんごのように赤くして、しょっちゅう熱を出す紅葉を、つきっきりで看病してくれた、優しい母。
あの頃、愛は誰からも無条件に与えられるものだと思っていた。
(案外、覚えてるもんだな)
ゆっくりと紅葉が瞼を開けると、彼の周囲には火の粉がひらひらと蝶のように舞っており、こめかみに赤い痣のある坊主が傅くように紅葉の前に存在していた。
「失った記憶も真名も、俺にとってはどうでもよかった。ただ……お前の傍に居られれば」
ゆっくりと、坊主が体を起こした。浅く呼吸をしている紅葉を見下ろす瞳の色は、彼と同じ赤に変わっている。
「だが、お前を苦しめてまで生きるつもりはない」
自分のせいで不自由な咎を背負う羽目になった彼を見下ろして坊主が言った。その眼差しは、悪戯を咎める時よりも遥かに厳しいものだったが、紅葉は『うるせえな』と言いながら、いつもの調子で自分の長い前髪を吐息で払う。
「てめえは死なせねえ。オレと生きて、共に死ね。それが答えだ」
その言葉と共に、彼らを護るように結界が張られる。
それは紅葉の葉っぱを象った光の結界だった。巻き上げられた塵も瓦礫も、その結界に触れただけで煤となって焦げ落ちる。
「好きなだけ暴れてきな。今のてめえは誰にも負けねえよ」
ニヤ、と悪戯に笑った主の顔に、坊主は毒気を抜かれたように眉を下げた。彼の言葉通り、坊主の体からは力が溢れてくる……。
坊主は瞼を伏せて深く深呼吸をすると、まっすぐに桜太郎を見据えた。
「あア、可哀想な紅様……身も心も、紅葉様に毒さレテ……」
桜太郎の両目が、暗闇へと変化している。足元からは黒い液体が流れ、既に人の形を保っていられないほど限界を迎えているようだ。
「眠らせてやる、桜殿」
坊主が祈るように呟いた瞬間、桜太郎の放つ黒い体液が二人を襲うが、それらは全て結界によって防がれて焼け落ちた。
赤い葉で作られた結界の中から、赤い槍がまっすぐに桜太郎へと飛んでいく。鋭い槍の一撃がスローモーションのように、まだ人の形を保った桜太郎の胸に突き立てられた。
「が、はッ……」
桜太郎の体が、大きくよろめく。
じゅわじゅわと音を立てて黒煙を上げる体を抱くようにして桜太郎が呻いた。
「ああ……やっぱり、素敵です、紅様……。私の、大好きな、人……」
手を差し伸べた桜太郎の体が、どろどろと溶けていく。その場に残されたのは、化け物の形をした黒い焦げ痕だった。
「てめえも連れてってやろうか、豚」
紅葉はそう言って白い光に包まれた指をもう一匹に向けた。今まさに紅葉の後頭部を狙おうとしていた化け物は、舌打ちをして身軽に後退する。
その姿が鬼道橙子へと変化した。
『豚はあんただよ。誰もパパに敵わない──みんなパパに土下座して詫びながら死ぬんだ』
ケタケタ笑いながら橙子がその姿を消す。
妖の気配が消えた道場の中で、焼けこげた床を見下ろしながら紅葉が言った。
「恐らく今の餓鬼どもはブラフ。本命は別ンとこ。兄貴を関東に返して正解だったかもな」
紅葉は肩を回しながら言うと、袖に手を突っ込んで氷菓子を取り出す。
「要る?」
紅葉が冷えたあんず棒を口に突っ込んだ。もう一本、坊主の分を取り出そうとしているのか、袖に手を入れて中を探っている。
「いいや。俺はこっちがいい」
坊主は肩をすくめると、紅葉の口からあんず棒を奪った。
怪訝そうな顔をしている紅葉は、坊主の顔が先程よりも近づいたことに何かを言おうとしたが、抵抗する間もなく強く抱きしめられてしまう。
「くれな……」
紅葉の言葉は遮られ、まるで離れていた時間を埋めるように唇が重ねられた。
坊主の指が長い前髪を丁寧に払い、紅葉の頬を優しく包み込む。
「なッ……!? んッ、んぅ……っ、ぅ……」
口移しするだけの行為とは違う甘い口付けは、抵抗しようとした紅葉の体から呆気なく力が抜けていく。
「愛してるよ、紅葉」
目を丸くした紅葉は、やがて吐息混じりに『アホ』といつもより弱々しい悪態を呟いた。
坊主の向ける感情を理解しようとすればするほど彼の心は切なく、あたたかくなる。
(そうかよ、オレもとっくに……)
あんず棒の溶けかけた下部を指で軽く押しながら、伏せ目がちの赤い瞳が惑うように揺れている。
やがて、小さな唇が『でも』と動いた。
「オレの幸せも、てめえの傍に居ることだ」
昨夜、酔いが回った坊主が電話口で零した言葉。それを紅葉が口にしたことが嬉しくて、坊主が破顔する。
再び顔を寄せると、紅葉の指が坊主の唇をそっと押さえた。
「紅葉……焦らさないでくれ」
坊主は少し困ったように眉を下げる。
「待ても出来ねえ犬かよ、てめえは」
あんず棒の残りを吸い込んだ紅葉が指を下ろす。
その手が遠慮がちに坊主の背中に回されるのと、再び唇が重なるのはほぼ同時だった。
もつれるようにして、二人の体は床に倒れ込む。
「ああ、親失格だな……俺は」
細い首筋にいくつもキスを落としながら、着流しから覗く手を握りしめて坊主が囁く。
体の下で呼吸を乱しながら逸らされた瞳は、どこを見ていいか分からないというようにしきりに視線をさまよわせている。
「怖いか?」
坊主が尋ねると、紅葉は小さくかぶりを振った。
「てめえは、オレに怖いことなんかしねえ」
「それ……最高の殺し文句だぞ」
坊主が紅葉の胸に顔を突っ伏すようにして悶える。
紅葉は不思議そうに目を丸くすると、坊主の頭を軽く撫でてから一度失った存在を確かめるように優しく抱きしめた。
夏の日差しが差し込む道場を、ほんの一時の甘い静寂が支配する。
しかし、それも僅かな時間だった。
「……かき氷食いたい。白玉付いてるやつ」
「はは、了解。それじゃ……もうひと仕事といこうか」
軽口を叩きながら、紅葉を抱き起こした坊主は並んで稽古場を後にする。
きっと、今日は最も長い一日になるはずだから。




