【子守唄 命拾ひて 双人舞】1
(ああ……飲みすぎた)
寝覚めは最悪だった。
昨夜の酒はもちろん、湿度のせいもあるのだろう。坊主頭の男は、深いため息をついて目元を押さえた。
同じ部屋で布団を敷いて眠っていたはずの、楓の姿は無い。
坊主は、重い体を起こして簡易冷蔵庫に近づき、中に入っていたミネラルウォーターを手に取る。一気に喉に流し込むだけで、火照った体が冷えて心地いい。
(楓殿を探すのはもちろんだが──桜殿の様子を見に行かなくてはな)
昨日のことを思い出しながら、坊主は僅かに眉間に皺を寄せる。
鬼道橙子を殺したのは自分だと、桜太郎は自白した。
柚蔵は、藤之助を跡継ぎにするために橙子と結婚させようとしており、それを知った桜太郎が橙子を殺したというのだ。
(本当にそれだけで、あの桜殿が殺せるものか?)
坊主はペットボトルのキャップを閉めて洗面所へと向かいながら考える。
なまぬるい水で顔を洗いながら、桜太郎との会話を思い起こすが、どう考えても桜太郎が橙子を殺すような姿がイメージできない。
何かの間違いであってほしいとすら思ってしまう。
おもむろに顔を上げた坊主の目に、鏡の中の自分が映し出された。きっと、さぞ疲れた顔をしていることだろう。
しかし、そこに居たのは朽ちた骸骨だった。
再度鏡を凝視すると、その姿はゆっくりと見慣れた坊主頭の男に変わる。
「おいおい……朝は勘弁してくれ」
思わず苦笑気味の声が漏れた。
彼は、自分の体がたびたび朽ちた骨に見えることがある。紅葉には心配をかけまいと、自分の体の異変を話したことはないが、柊の口振りから察するに──紅葉も気づいているのかもしれない。
(俺の記憶──本当の名前。それから、この痣……)
坊主の手がこめかみの痣に触れる。鳥が羽ばたくような形をしたその痣は、彼が目覚めた時からそこにあった。あの頃は紅葉も幼かったから聞けることも少なかったし、失われた記憶のことは後回しに考えて生きてきた。
あの雪山で震える幼い紅葉に出会った時から、ずっと。
(俺はこれからも変わらん。あの子と生きる今さえあればいい)
自分に言い聞かせるようにして、心に強く紅葉のことを想う。そうしているうちに落ち着いてきた坊主は、顔を洗うついでに朝風呂も済ませて、先程よりも晴れやかな表情で部屋へと戻った。
自分の布団を押し入れに仕舞ってから、楓の布団も片付けようとしたその時、ふと楓の寝ていた布団の傍に紙切れが落ちていることに気づく。
『椋様の稽古場に来てください。先日のことでお話したいことがあります。殺人事件の真実を、お話したいのです』
そこに書かれていたのは桜太郎の筆跡。
具体的な宛先は記されていないが、もしこれを楓が読んだとして、一人で向かうのは少し妙だ。
昨夜、楓は犯人探しを手伝って欲しいと言っていた。坊主より早く起きてしまったとしても、一人で大きな行動に出るだろうか?
(嫌な予感がするな──)
坊主は紙切れを懐に仕舞うと、少し迷ってから布切れを巻き付けた棒状の武器を手に取って稽古場へと向かった。楓が椋と一緒ではないことを願いながら──。
「桜殿」
日差しが差し込む稽古場は戸が開け放たれており、その中央で桜色の着流しに身を包んだ青年が立っていた。亜麻色の髪は陽の光に照らされて煌めいている。
「来てくださったのですね。嬉しいです」
桜太郎は、坊主に背を向けたまま穏やかな声色で言った。
「体はもう良いのか?」
「ええ。紅様のお陰で──」
坊主の問いかけに、桜太郎が小さく頷きを返す。その仕草で柔らかな亜麻色の髪が肩に落ち、白い首筋を覗かせる。
「ところで……楓殿の姿が見えないようだが、どこに行ったか知らないか? また椋殿と一緒に居たらと思うと心配でね……」
人の気配のない稽古場をぐるりと見渡す坊主の耳に、桜太郎の小さな笑い声が聞こえた。
穏やかだが、どこか様子がおかしいその声に違和感を覚える。
「桜殿? どうし──」
声をかけようとして息をのんだ坊主を見て、おや、と桜太郎が呟く。
「私の顔に、何かついていましたか?」
振り返った桜太郎の顔には──たれ目がちな鳶色の瞳があったはずの部分に、ぽっかりと空洞のような穴があいている。その部分から、どろりと黒い血が流れた。どろどろと流れて彼の皮膚を溶かしていき、泥の塊になっていく。
やがて──それは黒ずくめの醜悪な化け物に変わっていった。




