【空蝉の 潜む聲無き 鬼の影】5★
ちかちかと、寿命を迎えた電球のように、鬼道桜太郎の視界は点滅する。
瞬きのたびに現実と幻が交錯して、暗がりの床に飛び散った臓物、赤黒い血が交互に鳶色の瞳に映った。
壁に触れた手には、ぬめりとした何かが絡みつき、まるで生き物のように蠢きながら彼の皮膚の中を這い回る。血の臭いが、辺り一面に漂っているようだった。
壁には無数の血の手形が浮かび上がり、桜太郎の行く先を誘導するようにペチャペチャと音を立てては増えていく。
(今宵は、蟲が疼く──)
橙子が死んだ直後も、そうだった。
血の匂いに反応して体の中の蟲は喜び、皮膚から飛び出してくるような感覚に襲われた。
目の前が赤と黒にチカチカと光り、激しい目眩を感じる。
橙子の死体を二度目に見た時、床に崩れ落ちそうになってしまうその体を支えたのは、彼にとっての光だった。
『大丈夫か? 桜殿』
耳に心地いいその声が、桜太郎の中の蟲を鎮めていく。
紅。それが彼の名前だ。
部屋に連れていかれた桜太郎は、彼の袖をきゅっと遠慮がちに掴む。
坊主は、優しく声をかけながら桜太郎の体をベッドに座らせた。
『大丈夫──今夜は早く眠ってしまうといい。さっき見たものは、悪い夢だから』
子供に言い聞かせるように坊主が微笑んだ。どこまでも優しく、力強い眼差しに安心感を覚える。
このまま、ずっとここにいて欲しい。
そんな思いから、体を起こそうとする坊主の袖を掴んだ。
『私──なんです、橙子さんを殺したのは』
鳶色の瞳が、僅かに見開かれる。
今だけは、彼が映しているのは自分の姿のみ。そんな高揚感で、独占欲で、桜太郎の胸はいっぱいになる。
『す……すまない。少し混乱しているみたいだな。俺も、君も……』
坊主はそう言って困った顔をして笑い、桜太郎の肩に手を置いた。
無理もないだろう。《良い子》の桜太郎が、突然身内殺しの犯人だと名乗り出たのだから。
『大丈夫だ、桜殿。俺は君の味方だから』
坊主は桜太郎を落ち着かせるように──はたまた自分の動揺を隠すように、大きな手で桜太郎の背中をさすった。
もっと触れて欲しい。撫でて欲しい。
そんな小さくて浅ましい願いは、決して口に出せない。
『疲れただろう? 今日は、早く寝たほうがいい』
そう言った坊主頭の男が苦しそうに微笑んだのを見て、桜太郎の胸はキュッと締め付けられる。
(ああ、紅様……)
桜太郎の感情が高ぶるたびに、体内の蟲がざわざわと這い上がってきた。
けれど、秘めた気持ちを口にすることは出来ない。
彼を、困らせると知っているから──。
(私は、良い子でいないと……)
肩で息をしながら、崩れ落ちてしまいそうな体を何とか起こして暗がりの廊下を進んでいく。
ちくちくと、胸に無数の針が刺さったように痛む。その痛みはどんどん広がって、桜太郎の足を重くしていった。
「紅様……どうか、私に……罰を……」
桜太郎は、うわごとのように呟きながら暗がりの階段を壁伝いに降りていく。
やがて彼がたどり着いたのは、暗く冷たい壁に覆われた場所──。
瞬きもせずにその場に跪いた桜太郎は、赦しを乞うように頭を下げる。
「来たか」
桜太郎の目の前に居るのは、次期当主の姿。
彼が壺の中を漁るたびに、カサカサと心地の良い音が聞こえた。
「橙子の心臓はいい餌になったぞ」
そう言って壺の中から活きのいい黒い百足を取り出す。
ただの虫ではないことを、桜太郎は知っていた。
数多の血を吸い上げ、丸々と肥えた呪詛の塊だ。
体内の蟲が桜太郎に反応して強く脈打つ。
「うッ……ああ……」
まるで皮膚を突き破るような熱に襲われて、体を庇うように床に額を擦り付ける桜太郎を、男は冷たい眼差しで見下ろしていた。
「貴様も羽化の頃合だろう」
暗がりの中で不気味に灯る光が男の顔を照らしている。
太った百足を手にぶら下げたまま、ゆっくりと男が近づいてきた。
「……ゆ、柚蔵様……蟲が疼いて……苦しい、です……。どうか、お薬を……」
地面に額を擦り付けるようにして、桜太郎がくぐもった声で懇願する。
綺麗に結われた髪を、男が乱暴に掴んだ。桜太郎は、否応なしに男を見上げる体勢になる。
「そろそろ貴様も俺の役に立て」
その言葉と共に、百足が細身の日本刀へ変化した。
鳶色の瞳がぱちぱちと瞬きをした刹那、白い頬にベチャリと黒い血の手形が浮かび上がる。それは皮膚の下で移動しながら、桜太郎の両目を塞いだ。
「竹次郎は本当に残念だった。松蔭が余計なことをしなければ、骨の髄まで蟲に食わせてやれたのに──」
男の大きな手が桜太郎の頭をゆっくりと握り込む。
次の瞬間、日本刀が桜太郎の胸を勢いよく貫いた
「か、は……」
美しい桜があしらわれた着流しに赤い海が広がっていき、やがてその体は人形のように崩れ落ちる。
男のオッドアイが、暗闇の中で不気味に光っていた。
(くれな、い……さ、ま……)
桜太郎の唇が小さく動く。
薄れゆく意識の中で桜太郎が最後に見たのは、自分の心臓を手にする男の姿。
せめて、あの坊主に自分の想いを伝えることができたら。
そう願いながら、桜太郎の瞼は静かに閉じていった。




