【空蝉の 潜む聲無き 鬼の影】4
「う……」
一体どれほどの時間が経ったのか。
暗く冷たい場所で、彼の体は無造作に転がされていた。
薙刀で貫かれたはずの胸に触れるが、傷はひとつもついていない。
ただ、胸の部分の布地に不自然な穴が開いているだけだ。
鬼道楓は、まだ夢を見ているような心地で胸をさすっていたが、次第に血の気が引くような恐怖を思い出す。
意識が無くなる前、楓は間違いなく叔父である椋に薙刀で刺し貫かれた。
間違いなく、致命傷だったはずだ。
けれど、楓はまだ生きている。
(椋さん、どうして……)
自分の話を優しく聞いてくれた叔父の姿を思い出して、とても先程豹変した椋と同一人物とは思えない。
父のことをあんなに嬉しそうに話す人が、楓と同じように、鬼道家の最弱陰陽師として苦悩してきた人が、あんなことをするとは思えなかった。
「……」
どちらにしろ、こんな得体の知れない場所にいつまでも留まっている訳にはいかない。
体を起こそうと身動ぎした楓の目の前で、何かが動いたような気がして、体が自然と強ばる。
「誰か……居るのか?」
楓の声が、暗闇で反響した。
恐る恐るスマートフォンのライトで地面を照らした瞬間、おぞましいものが視界に飛び込んでくる。
ひとつは布団に包まれた鬼道橙子の遺体。
暗闇の中でも布団に染み込んだ赤黒い血がハッキリと見えた。
そしてもうひとつは……。
「さ、く──……」
まるで生きているかのような桜太郎の死体だ。
桜太郎は、人形のようにぽっかりと目を開けたまま胸から血を流している。
恐る恐るその体に手を触れてみるが、悲しいほどに冷たい。
「……そんな、桜太郎……さん」
楓は、やりきれない気持ちでいっぱいになった。
昨夜、橙子が殺された場所で犯人に繋がる重要な証拠──犯人のものと思われるブローチを見つけたことを思い出す。
もしかすると、桜太郎を介抱した彼は既に犯人に気づいていたのかもしれない。
鳥の形をしたそのブローチを帯留めに使っている人間が、鬼道家に一人だけ居たのだから。
「本当に何なんだよ、ここは……」
楓は、血の匂いでおかしくなりそうな鼻を押さえて体を起こし、よろめきながら壁伝いに歩き始めた。
足元には、どこの部位かもわからない小さな骨がいくつも転がっている。
中には、まるで骨格標本のように綺麗に人の形を保ったまま横たわる骨もあった。
(子供……もっと小さい骨だ──何で、こんなにたくさん……)
楓はふと、昨夜の紅葉の話を思い出す。
あの時は、楓を怖がらせるためにわざと大袈裟なことを言ったのだと思っていた。
けれど──。
今は紅葉の言葉と、足元に散らばる人骨の意味を考えて、ぶるっと体が震える。
長時間閉じ込められることになるかもしれない可能性も考え、楓はスマートフォンのライトを消して右手を翳した。
「……炎狗」
右手の赤い数珠から炎が立ち上り、炎を纏う小型の犬へと変貌する。
炎狗は、ぷるぷると体を振って火の粉を散らし、道筋を照らすように楓の周りを歩いた。
光があるだけで、ずいぶん不安もやわらぐ。
炎狗と連れ立って暗がりの通路を歩き続ける楓の目に、ぼんやりと光るものが見えた。
「お前……」
暗がりの先で楓が目にしたのは、二つの赤い光。
どうやってここに入ったのか、何故ここにいるのか──聞きたいことはたくさんある。
「やあ、鬼道楓」
ゆっくりと振り返った黒髪の子供が、眠そうな顔で微笑んだ。
それは、腹が立つほど緊迫感が一切ない声。
「今日はおやつを食べないんだな」
精一杯の冗談を言うと、子供は『さすがにここじゃあね』と笑う。
「ここはどこだ? どうして僕は生きてる? 椋さんは、何で僕を──」
矢継ぎ早に質問しようとする楓を、子供が片手で制した。『質問はひとつずつだよ』と幼子をなだめるような声で。
口を噤んでしまった楓を見て、子供が眠そうな顔で微笑んだ。
「ここは鬼道家の地下二階。懲罰室──って言うらしいね。柚蔵のお気に入りの場所だ」
子供は、眠そうな顔をしたまましゃがみこむ。
その視線の先には、子供の骨があった。
「この子たちの母親も、この部屋のどこかで眠っているんじゃないかなぁ。私が知る限り、五人はここに入れられていたよ」
そう言って、足元に転がる幼い子供の頭蓋骨を撫でる。まるで母が子を慈しむように。
楓は、椋に貫かれた胸を手のひらでさすりながら口を開いた。
「どうして、こんな酷いことが出来るんだ。自分の子供を……橙子さんや、桜太郎さんまで……」
その静かな問いかけは、この場にいない人間に向けたものだ。楓の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
幼い頃に母を亡くしている楓は、他人の死に酷く敏感だ。
子供は困ったように笑って体を起こした。
「それは私にも分からないな。私は私であり、柚蔵ではないからね」
そう答えた子供の体は、ぼんやりと白く輝いている。
その小さな足が、獣の前足へと変化していき、完全に白狐へと変わるまでに時間は掛からなかった。
「だけど、あの子たちの目的なら知ってる」
白狐は前足を揃えて楓を見つめている。
昨夜、楓にとどめをさした獣の姿が目の前にあった。
「お前……本当にただの気象予報士か?」
楓の声は少し強ばっている。
白狐は楓の足元にまとわりついて、顔を擦り付けるような仕草をした。
子犬にも似た甘え声を出しながら、楓の次の台詞を待っている。
「なあ、御先祖様」
確かめるように紡いだ楓の声は、白狐を喜ばせるには充分だった。
彼の名は、鬼道澄真。
かつて鬼を屠ったという、伝説の陰陽師──。




