【赤加賀智 残痕辿る 狐雨】8
「ちー!?」
「大丈夫だって……」
藤之助は、突然の物音に驚いて暴れているチー太を懐に入れてそっと扉を開けた。
「桜太郎……兄さん?」
そこには、壁に手をついてふらふらと廊下を進む桜太郎の姿がある。疲弊しているのか、その足取りは酷く重い。
藤之助はその兄の背中に何も声をかけることができなかった。
(こんな夜に、どこ行くつもりだ?)
廊下は静まり返っており、誰もいない。藤之助は足音を立てないように桜太郎の後を追う。
ふらふらと階段を降りていく桜太郎の姿は、まるで夢遊病のようにも見えた。
鬼鳴りが響くのもお構い無しに歩く桜太郎に合わせて、廊下を歩くのは容易い。
鬼道家の床は、いくら足音を立てないように歩いてもその構造のせいで鬼鳴りが起きる。しかし、桜太郎の足音は藤之助の鬼鳴りを打ち消すほど大きかった。
「……どう、か……私に……罰を……」
桜太郎が熱に浮かされたような声で呟いている。藤之助は壁に隠れながら耳をそばだてた。
「チー太、今の聞こえたか?」
「ちー?」
チー太が首を傾げる。
藤之助は兄を尾行している自分自身に若干の後ろめたさを感じながら、ゆっくりと階段を降りていく。
一定の距離を保って、桜太郎に気づかれないように二階へ向かう。桜太郎は歩みを止めることなく、廊下の壁にべたべたと手をつけて歩いていた。
「紅、様……」
桜太郎が呟いたその名が、かろうじて耳に届く。確か、楓と一緒に居た坊主の名前だ。
藤之助は、兄が何かと坊主を気にする素振りを見せていたことを思い出していた。鬼道家の墓場で坊主を見つけた時も、桜太郎はすぐに彼を『紅先生』と呼んだ。
鬼道家五男の世話係でありながら、あの坊主は頻繁に鬼道家に出入りしているらしい。桜太郎も彼に槍術を教わっているため、先生と呼んで慕っているのだという。
本当にそれだけの関係なら……だが。
(様子が変だ……もしかして、あの坊主に何かされた?)
藤之助は鬼鳴りの音が立つのも構わずに兄の元へ向かおうとした。
その瞬間、後方から別の鬼鳴りが聞こえて竦み上がる。
慌てて階段の傍に戻った藤之助は、暗がりの中で目を凝らしながら廊下の先を見つめた。
「……十分程度でしたら、外で待っております」
父、松蔭の声だ。暗闇の中にぼうっと浮かぶ顔は、まるで幽霊みたいだと藤之助は思う。
松蔭と話しているのは、声からして鬼道楓だろう。楓は松蔭と何かを話すと、祖父である柊一の部屋に入っていく。
(こんな時間に何やってんだ? あんな年寄り、殺人事件に関係ないのに……)
藤之助は暗闇の中で腕を組みながら眉を寄せた。楓の後を追って祖父の部屋に入りたいが、部屋の外には松蔭が居る。
(ちっ……)
藤之助の脳裏に夕方の出来事が過ぎった。
腹いせに松蔭の盆栽を壊したのは、少しやりすぎだったと思う。そんな後ろめたさもあって、あれ以降松蔭と話していない。橙子が殺された直後でさえ、藤之助は父と話せなかった。
(どうせ俺のことなんて、もう息子とも思ってないんだろ? そうだよ……気にするだけ無駄だ。何か言われてもシカトすれば良い)
心の中で強がってみるが、どちらにしても何食わぬ顔で松蔭の前に姿を見せるのは非常に気まずい。
『藤之助、隠れなくても大丈夫だよ。父様は優しいから。藤之助が赤ちゃんだった頃、上手くミルクが飲めなくて泣いてた時も……』
腕の中で日記が熱を持った。ぼんやりと光を放ちながら、竹次郎の言葉が紙を走る。
暗闇の中で主張する竹次郎の日記を、藤之助は慌ててシャツの中に押し込んだ。
「所構わず光んな! 空気読めッ!」
「ち〜!?」
藤之助は小声で物言わぬ日記を叱りつける。器用に肩まで移動していたチー太が、藤之助の声に驚いたのかパタパタと羽音を鳴らした。
「そこで何をしている」
案の定松蔭に気づかれてしまったようだ。思わず口を片手で押さえる藤之助だったが、もはやその行為に意味はない。
鬼鳴りの音が不気味な音を立てて近づいてくる。
「藤之助、居るのか」
松蔭の声は普段と変わらない。
藤之助は、無邪気に返事をしようとするチー太を必死に抱きしめながら自分の口を押さえていた。
「松蔭様?」
少し離れた場所から杏珠の声が聞こえて、松蔭の足音が聞こえなくなる。
藤之助は口を押さえたまま胸を撫で下ろした。
(に、逃げるなら今しかない……)
何かを話しているようだが、藤之助には何も聞こえないし気にする余裕もない。
藤之助は壁際から階段の手すりに手を伸ばして素早く階段へ移る。松蔭が追いかけてくる気配はなかった。
「……桜太郎兄さんが戻るまで部屋で待つ。それでいいだろ」
無事に三階の廊下へと戻ってきた藤之助は、すぐさま逃げ込むように自室に入る。
どっと疲れてベッドの上に日記を放り投げる藤之助の目に、白いページが飛び込んできた。
「……何とか言えよ」
竹次郎からの応答は無い。
誰のせいでこんな目に遭ったんだ、と毒づきながら藤之助は鼻を鳴らしてベッドに腰掛ける。すぐに、懐から出てきたチー太が膝の上に乗ってきた。
「ちー……」
チー太は、黒い豆粒のような瞳で藤之助を見上げる。そのつぶらな瞳を見ていると、何だか自分が悪いことをしたような気がして心がそわそわした。
日記は相変わらず開いたまま、時間だけが過ぎていく。
「……はあ」
緊張をほぐすように、藤之助はゆっくりとため息をついた。まだ完全に気を抜けるわけではないが、それでも傍にチー太が居るだけで気分も違う。
チー太に何か本を読んでやろうと思って、藤之助が顔を上げた──その時。
「──ッ!?」
部屋に入ってきた気配もなく、何者かが藤之助の目の前に居た。
反射的にチー太を抱き抱えた藤之助を観察しているのか、小首を傾げながら『きゅう』と鳴いて、まるで犬のようにしっぽを振っている。
それは人ならざる者の象徴である赤い瞳をした、幼い白狐だった。




