【赤加賀智 残痕辿る 狐雨】7
「くそ……」
鬼道藤之助は何度目かの寝返りを打って呟いた。
食堂を出てから約二時間が経ったが、まだ眠りにつくことができない。意地を張って夕飯を口にしなかったせいだ。腹が虚しい音を立てている。
「……お前は満腹みたいだな」
「ちー!」
蕎麦をたらふく食べて満足そうなチー太が鳴いた。
今夜は、チー太も藤之助と同じ部屋で就寝させる。橙子を殺した犯人がもし外部の者だった場合、家の外に潜んでいる可能性もある。彼にとって唯一の友であるチー太を危険な目に遭わせるわけにはいかない。
(この家の連中は勝手に死ねばいい。でも、チー太と、アイツだけは……)
チー太の柔らかな羽毛を撫でる藤之助の脳裏に、もう一人の顔が浮かぶ。長い黒髪に冷たい表情をした親戚の少女、鬼道杏珠のこと。
彼女に押し付けられた柔らかな体を思い出すだけで、藤之助の顔は熱くなってしまう。
(馬鹿、意識すんなッ……)
藤之助は、自分を叱責しながら体を丸めた。
杏珠とはたった一歳しか違わないのに、彼女は明らかに成熟している。それは既に杏珠が、藤之助の知らない世界を知っているからなのだろうか。
あの折れそうな体を、藤之助に触れた柔らかな部分を、まるで玩具のように弄んでいる柚蔵のことを考えるだけで吐き気が込み上げてくる。
藤之助はブランケットを強く握りしめて目を伏せた。
「ち〜」
そんな藤之助の心中を知ってか知らずか、チー太はその場でトコトコと行ったり来たりを繰り返している。利口なチー太にしては珍しく落ち着きがない。
「チー太、来い」
腕を伸ばしてチー太に声をかけるが、チー太は首を傾げてから勉強机の上に飛び乗った。
そのまま本棚を見上げて、豆粒のような瞳をキラキラさせている。
「……降りろよチー太。寝るんだから」
ブランケットを頭から被って寝返りを打ちながら、再度藤之助がチー太を呼ぶ。
しかし、机を擦る足音はいつまで経っても止まない。
「はあ……」
痺れを切らした藤之助は体を起こす。
机の上に乗っているチー太を片手ですくいあげてしばらく考えた後、そのまま小さな友人の望み通り本棚に近づけてやった。
「どれが読みたいんだよ」
藤之助がぶっきらぼうに尋ねる。
本棚に降り立ったチー太が近づいたのは、鬼道家の歴史及び天気の操り方について。かと思えば植物学の本に移動してみたり、菓子作りについてまとめられた料理本に移動して、楽しそうにちーちーと鳴いていた。
「多趣味だな、鳥なのに」
藤之助はそんなチー太を見て笑う。
どうせあのまま横になっても、考え事ばかりで眠れる気がしない。
そうやって悩んでいる時、チー太はいつも無邪気な姿を見せて藤之助を励ましてくれる。今だって、余計なことを考えずに済むように気を引いているのだと、言葉は分からないがそう感じる。
「ちー!」
不意にチー太は本棚に飛び乗り、黒いカバーの背表紙をくちばしで啄む。
「何だよ」
まるでその本を取れと言われている気がして、藤之助はチー太を手のひらに移動させてから黒い本を引っ張り出す。
それは藤之助も知らない誰かの日記。そもそもこの部屋は、藤之助が初めから使っていたわけではない。
「鬼道竹次郎……」
表紙の右下に綺麗な字でその名前が記されている。
藤之助が鬼道家に帰ってくる前、行方不明になったという兄、鬼道竹次郎。藤之助は竹次郎のことも桜太郎のことも何一つ覚えていない。思い出は全て、仙北屋家に行く時に捨ててしまったから。
父と最後に行った甘味処での思い出だけを残して。
「……嫌なこと思い出した」
「ち〜?」
気まずそうに舌を鳴らす藤之助を、チー太が無邪気に見上げている。
次男の桜太郎は、いかに竹次郎が藤之助をかわいがっていたか話そうとしていたが、会話を望まない藤之助は、頑なに耳に入れようとしなかった。
「俺はあんたのことなんか覚えてないですよ」
藤之助は手の中の本を見つめて呟く。
表紙を開いたのは、ただの気まぐれだった。顔も、どんな声だったのかも覚えていない兄の面影を探すように、藤之助の指がページを捲る。
「……」
中は真っ白で何も書かれていない。
少し肩透かしを喰らったような気持ちで、パラパラとページを捲っていた藤之助の手を、チー太がくちばしでつついた。
「ちー!」
「何だよ、もう飽きたのか?」
じゃれつくチー太をなだめようとして藤之助が日記を閉じようとした時、不意に手の中の本が淡い光を放ち始める。
『藤之助』
今まで何も書いていなかった空白のページに、表紙の筆跡と同じ文字が浮かんでいる。思わず日記から引っ込めようとする藤之助の指を、チー太が甘噛みした。
『この文字が見えている? ボクの名前は、鬼道竹次郎』
次々に浮かび上がってくる文字を見て、藤之助はギョッとする。
「な、何だよこれ……」
『驚かせてごめん。こうでもしないとお前と話せないから』
竹次郎と名乗ったその文字は、すぐに消えては浮かび上がってくる。
『これは生前のボクが残した術式。今のボクに知性がない可能性も考慮して、残しておいた。その様子だと成功したみたいだね』
藤之助が文字を目で追うと、それはすぐに陽炎のように消えて文字を紡いでいく。
手の中では、まだチー太が藤之助の指を齧って遊んでいた。
『藤之助、お願いがある』
竹次郎の言葉が紙に浮かび上がる。
『何も聞かずに、すぐ桜のところに行って欲しい』
藤之助は半信半疑で日記を見つめていた。突然、竹次郎を名乗る人物から送られたメッセージ。
声も顔も知らない。愛された覚えもない、藤之助の兄。
「……何で俺なんだよ。父親に頼めば良いだろ」
その言葉から逃げるように、ペラペラと白紙のページを捲って藤之助が答えた。
しかし、彼の術式は本そのものに宿っているようだ。藤之助が捲った先のページに文字が浮かぶ。
『今の父様に、ボクと話せる力は無いよ。父様は霊力のほとんどを失った。鬼道柚蔵に奪われたんだ』
藤之助がページを捲る手を止めた。
杏珠の心と体を傷つけ、鬼道家を暴力で支配する男──鬼道柚蔵。その男が父にも危害を加えたと、竹次郎は言っている。
それが、本当に真実なら。
『ボクの言葉が信じられなくてもいい。けど、楓くんは藤之助の力になってくれる。お前を助けてくれるから──』
文字がさらに何かを書き出そうとした時、突然部屋の外から大きな物音が聞こえた。




