【赤加賀智 残痕辿る 狐雨】1
「調べる、とは言ってもな……」
藤之助が食堂を出た後、蕎麦を綺麗に完食した楓は鬼道家の廊下で人知れずため息をつく。
柚蔵や椋とは話せなかったし、猿神への疑念も相変わらず消えない。
しかし、悪いことばかりではなかった。松蔭の子、藤之助と通じたことによって鬼道家で行動しやすくなったからだ。
藤之助は少々癖のある性格ではあるが、根っからの悪ではない。仙北屋家と関わりがあったことには少なからず驚いたが……。
「やっぱり、もう一回あの場所に行ってみようか……」
独り言を呟きながら二階への階段へ向かった楓は、未だ血の跡が残る殺害現場へ足を踏み入れた。
「う……」
床一面には、血飛沫が乾いた黒い斑点となって辺りに点在している。血が飛び散った床は赤黒く変色し、床材を丸ごと取り替えなければ跡が残るだろう。
特に目を引くのは、壁にも飛び散った血の跡。血で出来た手形は白い壁にくっきりと残され、花びらのように広がっていた。
激しい争いで壁の隅にあった花瓶は割れてしまったのか、花瓶の破片が入ったビニール袋が少し離れた場所に置かれている。
当然、死体は既に松蔭が片付けたため、その場にはない。
「ん……?」
床に残る血の跡を見つめていた楓が怪訝そうに眉を寄せる。
それは、犯人に繋がる小さな証拠。
橙子の血痕に紛れてはいるが、血溜まりの中にキラリと光る何かが落ちている。見逃してしまうほど小さなものだったが、血液や臓物とは明らかに異なるものだ。衣服についていたものが千切れてしまったのだろう。
それは欠けていたが、何かを模したブローチに見える。
「これ、どこかで……」
血溜まりの中からそれを拾い上げて注意深く見つめていると、不意に消え入りそうな鬼鳴りが聞こえて思わずそれをズボンのポケットにねじ込んだ。
「……」
鬼道柚蔵の次女、杏珠だ。どうやら食堂に向かう途中らしく、一階へ繋がる階段に向かおうとしていた少女は、楓に気づいて小さく会釈をした。
「や、やあ……」
半笑いを浮かべて挨拶をする楓を、杏珠は感情のないガラス玉のような瞳で映し、凄惨な床へと視線を落とす。
「ここで、何をしていたの?」
湿度のある声で杏珠が問いかける。その表情は姉が死んで悲しいのか、事件現場を調べていた楓を疑っているのか──。彼女の顔からは感情というものが読み取れない。
楓の身内にいる青蛙神のハルも無表情ではあるが、ぼーっとしたハルと、感情の抜けてしまったような杏珠は全く違う。
「あなたたちは、本当に無関係?」
杏珠が上目遣いで楓を見つめた。
生気の感じられない赤い瞳に覗き込まれると、まるで心の中を見透かされているような錯覚にとらわれる。
「も、ちろん。僕と紅さんには橙子さんを殺す動機がない」
「でも、お父様は疑っていた」
どこからともなく入ってきた湿度のある風が艶やかな黒髪をなびかせ、床に残された血の臭いを連れてくる。
まるで家全体が楓を疑うように、みしみしと音を立てて家鳴りが起きた。鬼鳴りと混ざって、人ならざる者が低い声で嘲笑うような、不気味な音に変わっていく──。
「……ッ」
その音に怯んだ楓に気づいてか、杏珠の表情が僅かに曇った。
「早く、この家から出ていったほうがいい。良くないことが起きる前に」
その言葉の意味は楓には分からない。けれど少女の赤い瞳は、何かを訴えるように揺れている。
「良くないことって──何だ? 君は何か知ってるのか? 知ってるなら──」
楓は躊躇いがちに問いかけようとした。
赤くなった手首を撫でながら黙っていた杏珠は、再度問いかけるよりも前に、楓の横を通り過ぎる。
「お坊様が心配していたから。早く、部屋に戻って。夜は……鬼が出るから」
杏珠はそう告げると、控えめな鬼鳴りの音を立てながら立ち去った。
その場に残された楓は、杏珠が階段へ向かう様を見送り、まじまじと床に広がる赤い血の跡を見つめる。
「……」
ぴちゃぴちゃと屋根を伝う雨音が聞こえた。いつから雨が降っていたのか、小さな雨粒が窓ガラスを伝っている。
しかし、窓から見える空は星が瞬き、晴夜そのものだ。
「……夜の天気雨?」
「きつねあめだねぇ」
窓際に近づいて不思議そうに呟いたその時、ふと楓の後ろから幼い声が聞こえる。
窓ガラスには映らない、得体の知れない何かが彼の背後に立っていた。




