【西瓜割り御霊鎮めし魂祭】2
目の前に居るのは、恐らく鬼道橙子だったもの── 。
藤之助は、それを認識するまでに数秒かかった。周囲から世界の音が消え去ったような冷たい静けさに、全身が包まれていく。
誰かの鬼鳴りが『キィ』と音を立てた時、五感がよみがえってきた。
「──うッ」
鼻につく生臭い血のにおい。激しく争ったのか、壁にはおびただしい血痕が飛び散っている。
目の前にある肉塊が人であることを理解した瞬間、藤之助の体は平衡感覚を失い、膝から崩れ落ちる。
橙子の顔は、判別がつかないほどに滅多打ちにされ、胸は赤く染まっていた。目尻と唇は大きく裂かれ、まるで鬼のような形相に変えられた顔には、生前の面影などない。
顔の皮膚は引き裂かれ、筋肉と骨があらわになっている。元々は白いワンピースだったものは血にまみれ、体にべったりと張り付いていた。
まるで、地獄のような光景。
「ぐッ……」
藤之助は両手で口を押さえてへたりこんだ。視界がぐらつき、心臓が激しく鼓動を打っている。
目の前の惨状が脳裏に焼きつき、冷たい汗が額に浮かぶ。彼の呼吸は乱れ、吐き気と恐怖が一気に押し寄せてきた。
「あらあら、藤之助──」
そんな藤之助の背中を椋が優しくさすった。大丈夫、と声をかけながら慰める椋に、藤之助は一瞬気を許してしまいそうになる。
しかし、すぐにまた後悔することになるのだ。
「くふふ……しばらくお肉食べられへんねぇ? 今日の夕飯はハンバーグにしたろかな〜って思ってるんよ。ハンバーグ食べるたび橙子ちゃんの死に顔思い出して気分悪なるかもしれへんさかい、ボクが代わりに食べたげる」
そう言いながら背中をさする椋の手から、ヒヤリとした冷気が広がっていくような感覚がある。
「や、やめろッ……!」
咄嗟に椋を払いのけようとした手が、やんわりと握られた。それは蛇のように絡みついて、抵抗しようとする藤之助を離さない。
ふと、柔和に伏せられた椋の目がすっと開き、血のように赤い瞳が藤之助を映す。その瞬間、まるで蛇に睨まれたカエルのように身動きが取れなくなった。
椋は、笑っている。
「……なぁんにも心配いらへんよ」
藤之助にしか聞こえない声で椋が囁いた。
その声は甘く、深く、脳に染み込んでいく。藤之助をさらに恐怖の底へと引きずり込むかのように。
「ふざけ……うぇッ……」
咄嗟に強がった恨み言も込み上げてきた嗚咽にかき消されてしまい、藤之助は肩を震わせる。そのたびに身体中が冷たくなり、寒気が背筋を駆け上がった。
彼の目の前で倒れているものが、かつて生きていた人間であったなんて。
信じられない。信じたくない。
「あらあら、ほんま怖がりやねぇ」
ニコニコと微笑みながら椋が藤之助の背中を撫でる傍らで、楓が神妙そうな顔つきで橙子の死体を見つめた。
「一体誰がこんな酷いこと……」
楓の言葉尻が震えている。それでも、藤之助ほど取り乱してはいない。陰陽師としての経験は浅いが、これまでに様々なものを見てきたのだろう。それこそ、無惨な姿になった人間の死体も。
「ゆ、柚蔵様!」
使用人たちの声と共に鬼鳴りが響いた。鬼道家長男、柚蔵がしっかりとした足取りでやってくる。
その後ろから続くのは、次男の松蔭。そして松蔭の息子であり藤之助にとっては兄の桜太郎が青い顔をして近づいてきた。
「ひいっ!」
桜太郎は橙子の変わり果てた姿を目にした瞬間、青白い顔をしてよろめき、その場に崩れ落ちそうになる。
その体を、松蔭と坊主が支えた。
「桜殿、平気かい?」
「あ、ああ……どう、して……こんな……」
桜太郎は震えながら坊主の袖にギュッとしがみついた。
やがて暗い顔をした杏珠もこの場へとやってくる。変わり果てた姉の姿を目の前にしても顔色ひとつ変えない。ただ静かに瞼を伏せると、迷わず藤之助の傍にしゃがみこむ。
「……平気?」
杏珠が藤之助の背中を遠慮がちに撫でた。椋に撫でられた時よりもずっと心地良かったけれど、今の藤之助に返事をする余裕はない。
「まさか、妖怪の仕業じゃ……」
一人の使用人が、恐る恐る声を上げた。その言葉には、人間の仕業だとは思いたくないという祈りと不安が混じっている。
「愚かな。件の人喰い妖怪ではあるまいし」
柚蔵の言葉に引っかかるものがあったのか、楓が僅かに顔色を変えた。
「人喰い妖怪とは? 俺も紅葉も聞いておりませんが」
楓の僅かな変化を感じ取った坊主がほんの少し低めの声で問いかける。柚蔵は坊主を一瞥すると、鼻を鳴らして答えた。
「先日から出没している。目撃情報によると、人の心臓を食べる猿だそうだ。あの餓鬼から何も聞いていないと?」
柚蔵の話を聞きながら、ちらりと坊主の視線が楓に向けられる。顔色がどんどん青くなっていく楓をさりげなく袖で隠しながら、ふむと唸った。
無言の静寂がその場を支配する。
「松蔭、処理しろ」
「かしこまりました」
松蔭は顔色も変えずに返事をすると、毛布を持ってきた使用人の手を借りて、橙子の死体に被せる。
そして死体を隠すようにぐるぐると毛布で巻き上げ、表情ひとつ変えずに抱き上げた。
「ち、父、上……私も……」
すぐに桜太郎が松蔭を手伝おうと近づいてくるが、その手はかたかたと震えている。
「お二人を部屋に案内しなさい」
松蔭が桜太郎を見ずに言った。これから死体を処理しようとする人間とは思えないほど、普段と同じ感情のない声。
「……か……かしこまり、ました……」
桜太郎が小さく震えている。その様子は藤之助以上に深刻で、とても客人を案内出来る精神状態ではない。
「松蔭様……私も、手伝う。いい……?」
杏珠が尋ねると、松蔭は少し間を置いてから小さく頷くような仕草を見せた。
「……うっ、あぁ……」
ぶるぶると震えながら、自分の腕を抱きしめている桜太郎を見て、杏珠は声をかけようとして止める。桜太郎の呼吸は浅く、唇は紫色に変わっていた。何か一言声をかければ今にも過呼吸を起こしそうだ。
「桜殿、行こうか」
見かねた坊主が桜太郎の手を取った。返事も待たず楓たちに目配せをして、廊下の奥へと立ち去っていく。
「……来て」
鬼鳴りが完全に聞こえなくなった頃、藤之助をちらりと見た杏珠は、すぐに身を翻して客人である楓に声をかける。
「あ、ああ」
楓は遅れて杏珠の後に続いた。やはり藤之助や桜太郎ほど狼狽えてはいない。似た光景を何度か見たことがあるのだろう。
少なくとも、鬼道楓は藤之助よりも場数を踏んでいる。
「……ッ」
藤之助は、口を押さえたまま込み上げる無力感に苛まれていた。
初めて死体を目にしてしまったショックは大きかったが、それより重要視すべきことは犯人のことだ。犯人はまだこの家に潜んでいるかもしれない。それこそ、人喰い妖怪の可能性だってある。
(仙北屋で何を学んできたんだよ、俺は……!)
藤之助は、脳裏によぎる橙子の死に顔を忘れるように強くかぶりを振る。
「ちー……」
懐に潜り込んでいたチー太が、心配そうに藤之助の肩まで登ってきて鳴き声を上げた。その羽毛はぷるぷると震えている。
頭のいいチー太のことだ、きっとこの状況に恐怖しているに違いないと藤之助は思った。
「……平気。ちょっと驚いただけだから」
藤之助は震える指でチー太のくちばしを撫でる。そうすることで、少し──ほんの少しだが気持ちが落ち着くような気がした。
(ビビってどうする。今俺がしなきゃいけないことは……)
心を落ち着かせるように深くため息をついた藤之助は、やがて鳶色の瞳を真っ直ぐに向けると、楓たちの後を追いかけた。




