【弁慶草、むせかへる鬼の衣かな】17
藤之助の手から飛び降りたチー太が、トコトコと近づいてきて楓の目の前で大人しく立ち止まる。彼を応援するかのように、小首を傾げて『ぴちち』と鳴いた。
「じゃあ……やるよ」
楓は緊張した面持ちでチー太をじっと見つめると、その足元に置いた和紙に『鴉』と書く。それを見て、ずいぶん慎重なやり方をするのだな、と藤之助は思った。
修行を積んだ経験者ならば手順通りに行わなくとも──何なら印を結ぶ必要もなく、術は使える。印を結んだり道具を使ってみせるのは、一種の自己暗示だ。手順通りにやることで、人は安心感を覚えて儀式に没入しやすくなる。
テスト前の勉強や、大勢の前で話すスピーチの練習のように、事前に用意をしておくことで気の持ちようも違う。藤之助は仙北屋でそう教わってきたし、安定して術を使えるようになるためにメンタルをコントロールする訓練もしてきた。
(ま……こっちに来てから何の役にも立ってないけど……)
先程の父親とのやり取りや、杏珠の前で動揺したことを思い出して、気まずそうに藤之助の視線が空を泳ぐ。
とにかく──凡人が一年やそこらで簡単に習得できるようなものではないのだ。生まれながらの天才でもない限りは。
(何を期待してんだか)
藤之助は惑っていた。最強の陰陽師である鬼道柊の息子に対して、何かしらの期待をしている。
既に、詠唱を紡ぐ楓の額には汗が滲んでいた。並の人間では途方もないエネルギーと集中力を使うのだから当然だ。そのため、プロが支給した札は、手順を飛ばして使える上に安心感も違う。
結果、本人のメンタルも充分に整った状態で術が使えるため、自前で霊符を用意することの必要性はあまりなくなってきていると考え、簡易霊符で済ませる者も居れば、昔ながらの方法で満月の晩に採取した霊木の皮を使い、漉魂師が一から霊力を注ぎ込んで作った霊符を好んで使う者も居る。
「変幻転換」
気を整えてようやく放ったその術は、霊符を通じてチー太へと注ぎ込まれる。しかし──何も変化はない。
それでも何か起きるのではないかと、藤之助も楓も黙ってチー太を見つめるが、チー太は嬉しそうに『ちー』とかわいらしく鳴くのみだった。
「ほら……何やっても上手くいかないだろ、僕って」
彼の顔は、術が失敗したことへの落胆と恥ずかしさで表情が引きつっている。
鬼道楓は、ただの『最強の陰陽師の息子』ではない。藤之助と同じように悩みや迷いを抱えた人間なのだ。自分のことを『凡人』と言っていたのは謙遜でも何でもない。心からの言葉だったのだと気づいた時には、もう後の祭りだった。
「……なんか、その──すみません」
何となくいたたまれない気持ちになって、藤之助が謝罪する。自分が無理な要求をしてしまったことに、少しだけ罪悪感を抱いた。
気まずそうな顔をしている藤之助に、チー太は肩まで近づいて頬を擦り寄せて来た。まるで、素直に謝れた藤之助を褒めるように。
「ぴちちっ……ちー!」
「何だよ、お前くすぐったいんだってば……」
チー太のふわふわとした体がくすぐったくて藤之助が吹き出す。
その一連のやりとりを見て、楓が少し笑った。
「……な、何笑ってんですか」
「いや、実家で待ってる師匠のことを思い出して少し」
そう言って楓が少しだけ柔らかい表情を見せる。
彼の師匠は、最強の陰陽師の友人なのだと言う。
チー太のように優しくて、いつも楓を支えてくれて、楓が泣いていると慰めてくれる……優しい人なのだと言った。
「……意味わかんないですけど。チー太と同じってことですか」
そう言った藤之助は肩から降りたチー太を腕に乗せて、楓に向かって遠慮がちに手を差し出す。藤之助の手から楓の肩へと、チー太がトコトコと歩み寄ってきた。
「ちー!」
チー太は、挨拶をするように──はたまた、術が失敗してしまった楓を励ますように鳴いた。雀にしてはずいぶん人懐っこいチー太を見て、楓が笑う。
その顔は、少し杏珠に似ていた。親戚なのだから当然だ。
(親戚……)
藤之助は、少し安堵している自分に気づいて戸惑う。
ここまで長時間話した身内は、杏珠以外に居ない。チー太以外の友人も居ない藤之助にとって、仙北屋の外でコミュニケーションを取るのは初めての経験だ。
藤之助は、先程楓が反応を示していた本棚を見上げる。
「そんなに好きなら、読んでいけばいいじゃないですか」
そのぶっきらぼうな提案に楓は一瞬目を丸くしたが、すぐに藤之助の言葉に甘えて本棚から取り出した本を読み始めた。そんな楓の視線を追って、すっかり心を許したチー太も本を覗き込んでいる。
「……」
勉強机の上に読む予定もなかった参考書を開きながら、藤之助は楓から視線を逸らす。
杏珠に似た彼だから、または同じ男だから気を許せたのかもしれない。やがて藤之助は、ぽつぽつと話し始めた。




