【弁慶草、むせかへる鬼の衣かな】9
時間を忘れて振るった薙刀がようやく楓の手に馴染み始めた頃、椋がおもむろに薙刀を下ろした。楓ほどではないが、椋も汗をかいている。
すっかり暗くなった稽古場の明かりをつけた椋は、柔和に微笑むのだった。
「──少しは、気晴らしになった? 何や思い詰めた顔しとったからねぇ」
「ありがとうございます」
慣れない薙刀を振り回したため、息を切らしながら礼を言う楓を見て椋が微笑む。
「くふふ……待っとってな。今飲み物とってくるさかい」
そう言って稽古場から離れた椋は、すぐに麦茶のペットボトルを二本持って戻ってくる。
椋から差し出されたペットボトルを受け取って口に運ぶと、その清涼感のある喉越しで体の疲れも吹き飛ぶ気がした。
稽古場の一角には木製のベンチが二つ並んでおり、椋に手招かれるようにして楓が腰掛ける。
窓際では涼やかな風鈴が風に揺れて鈴の音を奏でており、その風は心地よくて麦茶の冷たい喉越しが一層美味しく感じられた。
「楓ちゃん、陰陽師は……やっぱりキツい?」
椋が用意した麦茶のペットボトルは結露し始めていて、触れると手がひんやりと冷たくなって気持ちいい。楓は右手から左手にペットボトルを持ち替えながら答えた。
「キツくないと言ったら嘘になりますけど……これが僕に唯一できることですから」
「くふふ……やっぱりひー兄さんの子やねぇ」
柊のことを口にするたび、椋の声色は一層柔らかくなる。きっと兄弟仲が良かったのだろうと楓は思った。こんなに温厚そうな人が弟なら、さぞかし柊が迷惑をかけていたに違いない……と。
「小さい時の親父ってどんな感じだったんですか?」
ふと、幼い頃の父の話が聞きたくなって楓は尋ねた。
「そら強かったよ。誰もひー兄さんにかなわへん。ボクもそんな兄さんのこと、世界で一番大好きやったんよ」
そう言って微笑む椋の表情は穏やかで、自分が言われた訳ではないのに、自然と楓の胸が跳ねた。そんな楓の変化に気づいてか、椋が優しく微笑む。
「──楓ちゃんのこと、色々言う人もおるんやろ? 鬼道家最強の息子、鬼道澄真の子孫、強くて当たり前、何でこの程度のことが出来ひんのや──なんて」
椋はそう言って、慈しむように楓の髪を撫でた。椋の指からさらさらと楓の長い髪がこぼれ落ちる。その切れ長の瞳から父や叔父と同じ赤い色が覗いた。
かつて、彼も周りの大人たちに言われたのだろうか。現代の鬼道澄真と呼ばれた柊を兄、天才と呼ばれた紅葉を弟に持ち、平凡な能力では認められなかった彼は──どれほど苦しい思いをしたのだろう。
「褒めてもらわなボクみたいに腐ってまうって、何でわからへんのやろねぇ」
困ったように笑ったその声が、少し寂しそうに聞こえた気がして、楓は黙ったままペットボトルの麦茶を口にする。
稽古場の外では日が完全に落ち、夜の帳が静かに降り始めていた。風が一層涼しくなり、虫たちの鳴き声が響き渡る。
「……椋さんは、優しいですよ」
ぽつりと楓が呟いた。それが思いもよらない返事だったのか、椋が小首を傾げる。
「弱さを、知ってる人は……強いんです。人に優しくできるから」
言葉数は少なくとも、楓の眼差しには感謝の気持ちが込められている。ペットボトルを握った手がわずかに震えているのを見て、椋が笑うのをやめた。
「でも椋さんは、すごく優しくて、綺麗……なのに」
汗に混じって花の匂いが鼻腔をくすぐる。いつの間にか、楓は食い入るように汗の雫が伝う白い首筋を見つめていた。
(何だ、僕は、いったい何を考えて……)
きっと椋は、そんな目で見られることに慣れているだろう。だから少し恥じらうように、惑うように──そして焦らすように一定の距離を保っているのだ。
楓は、小さく喉を鳴らして距離を詰めた。
「今は、すごく──悪い人に見えます」
熱に浮かされた他人のような声で楓が囁くと、椋の肩が小さく揺れた。
相手は男で、しかも叔父だ。口にした背徳感で全身の血が沸騰していくのが分かる。稽古の余韻が抜けきれていないにしても異常な熱さだ。
「ええよ──」
やがて、まるで心を読んだかのように、椋が楓にしか聞こえないほどの声で答えた。
金糸雀色の袖が床を伝い、そこからちらりと見えた白い指が楓の手のひらに重ねられる。指の股をなぞるようにして割り込んできた手が、きゅっと楓の手を握りしめた。その伏せられた瞼から、躊躇うような濡れた赤い瞳が覗いている。
「ボクのこと、好きにして?」
椋の切なげな声が、楓の腹の底にじわりじわりと染み込んでいく。その感覚はまるで猛毒のように広がり、理性が骨と共に溶けていくような錯覚。
楓を捉えて離さないその血のように赤い瞳の奥には、何か得体の知れない狂気が蠢いている。
楓は完全に抗う術を失っていた。
すべすべとした彼の手が楓の手に触れるたび、その温もりが楓の心を揺さぶり、常識を麻痺させていく。
(戻ってこられなく、なる……)
それはとても恐ろしく、心地のいい警報。自分の心と体が水飴のように引き伸ばされ、切り離されるような耐え難い感覚なのに、楓の喉はごくりと音を立てた。
決して抗えないその力に、身も心も屈してしまいそうになる──。
がたん。
その瞬間、大きな音を立てて稽古場の扉が開かれるのと、楓の手から薙刀の落ちる音がしたのはほぼ同時だった。
「ああ、失礼──こりゃ扉の立て付けが悪いな」
稽古場に現れたのは坊主だった。普段ニコニコとして穏やかな坊主の顔は微塵も笑っていない。鳶色の目が楓を見据えた時、嘘のように体の熱が引いていった。
「あらあら坊さんやないの。かんにんえ、楓ちゃんのこと独り占めにしてしもて」
「いえ、俺の方こそお楽しみのところ邪魔して申し訳なかったよ」
坊主はこれっぽっちもすまなそうに聞こえない声で謝罪した。
もう少し二人きりにしてくれてもよかったのに、と楓は少し不服さを込めた眼差しで坊主を見つめる。
「楓殿、そろそろ行かないか? 君に会わせたい人がいるんだ」
椋は穏やかに微笑んでいた。しかし、どこか先程と違って有無を言わさぬ雰囲気を纏っている。その理由が何故なのか、甘い夢から引き離されたばかりの楓には分からない。
「ほなまたね、楓ちゃん」
坊主は楓の肩を抱くようにして稽古場を離れる。名残惜しそうに振り返る楓を、椋が穏やかな表情で見つめていた。
その手に握られたままの薙刀は、鈍く輝いている──。




