【弁慶草、むせかへる鬼の衣かな】4
七月下旬にしては酷く冷たい風が楓の頬を撫でる──。
薄暗い廊下には、ところどころに置かれた古びた燭台が、頼りない明かりを灯していた。その光は、壁に飾られた古びた壁掛けの写真に影を落としている。家族の写真だろうか──白黒で色褪せているが、鬼道家を背景にした家族写真が並んでいた。その中でも目を引くのは──。
(白い髪……キイチみたいだな)
白黒でもはっきりと分かる白い髪の青年を見て楓の脳裏に浮かんだのは、古御門キイチだった。
隣には、写真と見紛うほど精巧な絵画。赤い瞳に白い髪をした老人が額縁に飾られている。おそらく、白黒写真の青年が成長した姿だろう。
絵画に描かれた老人は、白い髪を肩まで垂らし、その髪はまるで銀糸のように光を反射して煌めいている。鬼道家特有の赤い瞳からは、彼の内に秘めた強さと優しさが伝わってくるようだった。背景には鬼道家の庭が広がり、四季折々の花々が美しく咲き誇っている様子が、まるで本物のような柔らかなタッチで描かれている。
「鬼道家の現ご当主、柊一様だ。君のお祖父様さ」
坊主がそっと耳打ちした。
絵画の中の柊一は柔和そうに、けれども意志の強い眼差しを真っ直ぐに向けている。楓は無意識に背筋を伸ばして歩いた。
廊下を進むたび、キィキィと足音が響く。まるでこの屋敷自体が生きているかのように、足音が壁に吸い込まれて遠くで再び反響してくるのだ。薄暗い廊下から聞こえるその音は、化け物の呻き声のように不気味で、逢魔が時に近い時間帯ということもあってか嫌な想像をしてしまう。
「面白いだろ? この家では《鬼鳴り》と呼ばれてる。侵入者を知らせるための造りなんだそうだ」
坊主が穏やかに言った。
その説明のすぐ後、遠くから鬼鳴りが聞こえる。その音は屋敷の壁に反響し、まるであちこちから鬼の呻き声が聞こえてくるようだ。燭台の頼りない明かりが揺れ動き、影が壁を這っていく。
それはどんどん近づいてきて、薄暗がりの中から一人の男が出迎えるのだった。
「どうぞ。ご案内します」
ほの暗い廊下の先からやってきた隻眼の男が、無感情な声で言った。
彼の冷たい眼差しは、まるで体温が一度下がるような錯覚さえする。その無表情な顔を見ただけで、ここが楓の知る鬼道家ではないことが分かった。男の眼差しは、まるで氷のように冷たい。この世から、感情の一切を失ってしまったかのように。
「いやあ、お久しぶりです松蔭殿! 少し老けましたね?」
「……」
坊主に、松蔭と呼ばれた隻眼の男が、静かに会釈をする。その動作は機械的というよりも生気がなく、感情の一片も感じられない。
「竹殿は? きっとお優しい竹殿のことですから、弟君の勉強を見ているんでしょう?」
そんな松蔭の態度にも慣れたものなのか、ニコニコと坊主が問いかける。
「あれは亡くなりました。藤之助が帰ってくる少し前に」
淡々と、無感情な声で松蔭が言った。意図せず失言に気づいた坊主は、言葉を無くしたように無言になる。
松蔭の声は冷たく無機質で、その言葉からは、感情が一切読み取れない。身内の死を伝えることすら、日常の一部であるかのような冷たい声。
しかし、坊主の失言に対して松蔭が不快な感情を見せる様子はなかった。それでも何かを言おうとして口を開く坊主より先に、松蔭がぽつりと一言。
「気が向いたら、墓参りにでも行ってやってください。竹次郎も喜びます」
「ぜひ──行かせてください」
力強い声で答えた坊主は、蚊帳の外にされていた楓に気づいて優しく声をかける。
「紹介が遅れてすまん。彼は柊殿の兄、松蔭殿だよ。とても聡明な方でね──松蔭殿、この子は柊殿のご子息で楓殿と……」
「結構。私にお気遣いは不要です」
楓を紹介しようとする坊主を遮るように、松蔭は小さな──けれどもハッキリとした声で言った。
楓は緊張した面持ちで男の横顔を盗み見る。その皺が刻まれた顔は、柊にも紅葉にも似ていない。
(赤い瞳じゃ、ない……)
鬼道家の人間ならば妖の血が混ざっているため、その瞳は赤く発色しているのが特徴的だ。しかし、松蔭だけは違っていた。
その鳶色の瞳を不思議に思いながら、楓は鬼鳴りのする暗い廊下を振り返る。使用人が至るところで忙しなく行き来しており、誰が鬼道家の人間なのか分からない。
坊主は黙ったままの松蔭へ、次から次に世間話を投げかけていた。話題は紅葉のことが主だったが、松蔭が坊主の話題を煙たがる様子は無い。
楓も慌てて廊下を進んだが──その時、突然曲がり角から伸びてきた手が楓の進行を阻んだ。
「アンタが柊おじさんの子ぉ?」
歳の頃は二十代後半くらいだろうか──化粧が濃いため、年齢の判別がつかない女が声をかけてくる。
まじまじと見つめ返していると、女は高圧的に『中学生?』と尋ねてくる。
「こ、高校生です……」
女は舐めまわすように楓を見つめ、小馬鹿にしたように笑った。勝気につり上がった赤い瞳が、どことなく柊に似ている。おそらく彼女は鬼道家の人間だ。
「あ、あの。僕は──」
「顔から死相出てる」
女はそう言って、戸惑う楓を嘲笑う。
「西ノ明から嫁をもらわないから出来の悪い子が生まれるんだって椋様が言ってた──仙北屋のババアも同じこと言ってたんじゃない? 杏珠」
女が声をかけたのは──いつからそこに立っていたのか、静かに佇んでいるセーラー服の少女だった。手足は長く、色白で日本人形のように長く伸びた髪が美しい。
杏珠と呼ばれた少女が、黙ってかぶりを振る。赤い瞳は伏せ目がちに逸らされていた。
「おい──優等生ぶるなよクソビッチ。仙北屋で殺ること殺りまくってきたくせに」
その態度が気に入らなかったのか、女が舌打ちをする音が聞こえる。一触即発の雰囲気だが……それを冷たい声で諌めたのは松蔭だった。
「橙子お嬢様、客人の前では御遠慮ください」
松蔭の忠告に、女が僅かに怯んだ様子を見せる。しかしすぐに口元を歪めて笑った。
「へえ、松蔭のくせに口答えするんだ。パパに言いつけていいわけ?」
年配相手でも物怖じすることなく、女が噛み殺しそうな勢いで尋ねる。隻眼の男は無言で視線を逸らし、小さな声で『失礼しました』と詫びた。
橙子たちに見送られるようにして、再び隻眼の男に先導された坊主と楓は廊下を進む。
やがて彼らが通されたのは、鬼道家当主の部屋だ。暗い顔をした松蔭が案内する。
「ご当主様は具合が優れませんので、手短にお願いいたします」
松蔭が襖を引き、二人が通されたその部屋では、竹で作られた美しい簾を隔てて布団に横になった老人が居る。絵画の姿よりも幾分やつれているのは、そのシルエットを見れば明らかだ。人工呼吸器をつけており、空気の漏れる音が聞こえた。
「柊一様、お久しぶりでございます」
坊主が声をかけると、老人は僅かに反応を示した。そのシルエットが、坊主たちへと向けられる。
やがて、枯れ木のような手が布団から姿を覗かせ、静かに楓を手招いた。歳月と共に積み重ねられた当主の貫禄が、弱っていても確かにそこにある。楓の心臓が、微かに鼓動を強めた。




