【福樂の甘味や如何な夏の果】1★
翌日、鬼道家に猿神の姿はなかった。その所在を尋ねられた紅葉は、昨夜の出来事が嘘だったかのように眠そうな仏頂面で一言『知らねえ』と答える。それ以上の会話を拒否された楓は、柊のいびきを聞きながら気まずそうに食卓につくのだった。
午前七時の朝飯は、坊主が打ったという蕎麦。ひんやりしていて喉越しも良いし、夏バテ気味の胃にはピッタリだ。
「どうかな、味の方は」
「すごくおいしいです」
素直な感想を述べる楓を見て、坊主は満足そうに笑う。つんと鼻を刺激する薬味のわさびも、目が覚めるようだった。
昨夜の、適度に塩加減のきいたおにぎりといい、こんなに美味しい食事を毎日食べられる紅葉は幸せ者だと楓は密かに思う。
「食後のデザートだよ」
そう言って楓の前に出されたのは白玉あんみつ。まるで店で出されるような完成度だ。よくよく見ると白玉は鳥の形をしている。きっとハクが見たらもっと喜んだことだろう。
「紅さんって本当に器用ですね」
「ははは、そうかい?」
楓に褒められた坊主は、満更でもなさそうに笑って紅葉の皿に白玉を追加する。それは猫の形をした白玉だった。
手先の器用さに驚いている楓を尻目に、紅葉は薄い反応をして猫の形をしたかわいらしい白玉を一口で食べ切り、ふらふらと棒切れのような体を起こす。
それに合わせて、坊主が部屋の壁にかけていたハンガーから赤い羽織を持って戻ってきた。
「紅葉さん、どこか行くんですか?」
「出張業務だよ。京都の隣なんだけど一泊二日の小旅行だ」
楓に返事をしながら、坊主が自然な動作で紅葉の口元を自分の袖で拭う。
「県外の仕事も引き受けてるんですか?」
「まあ色々あってね。俺は留守番だが」
にこやかに答える坊主とは対照的に、紅葉は至極面倒くさそうに上着を着せてもらっている。熱中症予防にと帽子も被せられており、子供か、と楓は心の中で突っ込んだ。
帽子の下で、一際人相の悪くなった赤い目が楓を睨む。
「てめえも来るんだぞ」
「え、でも」
突然の指名に戸惑う楓だったが、坊主が穏やかに助け舟を出す。
「良いんだよ、柊殿から頼まれてるのさ。それにね……」
それまで穏やかだった坊主の顔つきが、ふと真剣なものへ変わる。いつもにこやかにしているため知る由もなかったが、紅葉に負けず劣らず人相の悪い鳶色の瞳が楓を見下ろした。
「紅葉は目を離すと甘味破産するから、財布の紐が固そうな楓殿じゃないと頼めないんだよ」
甘味破産という物騒な言葉の意図を明かされぬまま、真剣な眼差しの坊主に旅行鞄を預けられる。
楓は紅葉の保護者役として、兵庫県にある福樂町へ向かうことになったのだった。
京都からの移動には、新幹線で向かう。電車での旅も悪くはなかったが、人を嫌う紅葉が新幹線での移動を強く強請った。
「福樂町は妖怪の町として知られており……へえ、あの柳川千尋は兵庫の人だったのか」
ガイドブックを見ながら楓が呟く。
柳川千尋は全国にある妖怪の伝承を纏めた作家で、国立図書館の初代館長でもある。当然、楓も幼い頃に柳川千尋の本は読んだ影響で、彼のファンになった。猫又や河童、天狗伝説など、柳川の書いた本はどれも本当に間近で見てきたようなものばかりで、幼い頃の楓はそれを読んで胸を踊らせたものだ。柊に全巻売られたりなどしなければ……。
「着いたら時間ありますか? 柳川千尋の資料館、行ってみたいんですけど」
新しい土地で、しかも父の弟である陰陽師の仕事の手伝いともなれば少なからず興奮する。ガイドブックを開いたまま、普段より饒舌な楓が問いかけた。
なかなか柔らかくならないカップアイスをアルミのスプーンでつつきながら格闘していた紅葉が、ふとアイスをつつく手を止める。
「餓鬼、てめえは思ってること全部口に出さなきゃ死ぬのか?」
「し、死にません」
「じゃあ黙ってろ。次喋ったら窓から放り投げるからな」
紅葉はそれ以上のコミュニケーションを拒否するようにカチカチに固まったアイスと格闘を続ける。その眼差しは相変わらず死んでいるが真剣そのものだ。
楓は一人で大人しくガイドブックに視線を戻す。楓の目の前にある車内テーブルには、なかなか溶ける気配のないカップアイスが鎮座していた……。




