【白南風に鬼と踊れや猿と豚】3
食欲をそそる匂いに、楓が小さく身動ぎする。ゆっくり瞼を上げると、そこでは父の柊、そして坊主頭の男がちゃぶ台を囲んで食事を進めていた。
「お目覚めかい、楓殿」
「楓ェ、早く来ないとお前の夕飯無くなるってよ!」
まるで先程の出来事が夢だったかのように和やかな空間が広がっている。坊主はトレイの上に漬物の乗った皿と笹の葉に包んだおにぎり、そしてあたたかそうな味噌汁の入ったお椀を乗せて近づいてきた。
「さっきは紅葉がやりすぎたみたいですまなかった。そっちのお猿さんもどうぞ」
坊主は穏やかに言って。すぐにまた食卓へと戻っていく。楓のすぐ傍には鎖で柱に繋がれた美少女──猿神があぐらをかいているのだった。
「泣いて頼んできても今日一日そいつには何もやるなよ」
装いの変わった紅葉が奥の部屋からやってきた。薄花色の着流しに赤い羽織ではなく、杏色をした薄手の着流しに袖を通している。先程坊主が持っていたものと同じ生地だ、と楓はぼんやり思った。
幾分先程よりも顔色が良さそうだが、見れば見るほどその外見は楓と同年代のようには見えても、成人男性には見えない。
「断食は体内の浄化。肉ばっか食ってるから怒りっぽくなるし悪いモンも溜まるんだよ」
そう言って杏色の袖を揺らしながら楓たちの前を通り過ぎようとした時、猿神が憎々しげに舌打ちした。
「誰がこの家で食事なんかするか」
「そりゃあ良いや。飯代が浮く。良かったな、くれない」
紅葉は嬉々として猿神の怒りを煽るような返事をする。元々癇癪持ちな部分がある猿神だが、紅葉に負けたことで余計にピリピリしていた。
「あの、叔父さん……」
「あ〜?」
空気を変えようとした楓が遠慮がちに口を挟もうとすると、坊主が煮込んでいる卵がゆを、横から味見しようとしていた紅葉が怪訝そうに振り返る。
確かに空気が変わった。変わったのだが──。
家主は、ふらりふらりと歩きながら死んだ魚のような目をして楓を覗き込む。
「オレはまだ二十九だ、糞餓鬼。おじさんじゃねえ」
その言葉尻と眼差しには、明確な怒りがこもっている。先程痛めつけられた時と同じくらいの恐怖を楓に与えた。
どこから見ても二十九歳には見えないという言葉は何とか飲み込む。
「それ食ったらさっさと風呂行って歯ァ磨いて寝ろ、鬱陶しいんだよ」
紅葉は犬でも追い払うように手をひらひらさせると、酔っ払ったような足取りで食卓に戻る。猿神は殺意たっぷりに紅葉を睨み、わざと聞こえるように舌を鳴らした。
「来るんじゃなかった」
猿神は、鎖を両手で何度も引っ張ったり齧ったりしている。さすがにかわいそうになって、楓は自分のおにぎりを差し出した。
「要らない」
猿神は楓に背中を向けて鎖を外そうと試みている。まるで意地を張るように。
「そんなこと言っても、腹が減ったら動けないだろ? 妖気も回復するし……」
「うるさいなあ。自分が食べたらいーでしょ。ボクより弱いくせに。楓サンの雑魚」
「何だよその言い方ッ……」
猿神は子供が駄々をこねるように強く反発してくる。そんな二人のやりとりを見て笑いをこらえながら柊が言った。
「楓、いいから食っちまえって」
「食いたくないならとっとと寝ろ。餓鬼は嫌いなんだよ」
柊の傍らで、紅葉がべーっと舌を出した。坊主が苦笑しながら二人の食器を片付け始める。
「まあそう言うな。楓殿、今日は疲れたろう? ゆっくり休んでくれよ」
坊主は紅葉が立ち上がったのを確認して肩を抱きながら言った。
「く、紅さんたちは……」
「お、紅さんだってさ。新鮮でかわいいねぇ。なあ紅葉、お前も紅さんって呼んでみるか?」
上機嫌に笑って紅葉の頭を撫でる。それを払うどころか、うざったそうな顔で受け入れた紅葉は、死んだ魚のような目を泳がせるだけだ。
「うぜぇ。風呂」
「はいはい──行こうか、紅葉」
坊主はまるで子供をあやすような口振りで紅葉と共に部屋を出ていく。
「なァなァ、この後暇だろ? スロットでも打ちに行かね?」
「僕は未成年なんだよ。大体、叔父さんがあんなに怖いなんて聞いてなかっ──」
酒を飲みながらつまみの枝豆を食べている柊が声をかけてくる。そんなマイペースな父親を横目で睨んだ楓が突っ込んだ時、猿神を拘束していた鎖がじゃらじゃらと音を立てて地面に落ちた。
「猿神? どこに……」
「楓サンに関係ないでしょッ!」
猿神は、不快そうに体を起こしてわざとらしい足音を立てながら部屋を出ていく。
目を丸くしている楓とは裏腹に、柊はいつにも増して機嫌良さそうに笑うだけだった。




