【青東風や嵐の前の夏休み】10★
その日は夜中からずっと蒸し暑く、明け方には目が覚めてしまった。少し早いが、修行をするには充分な時間だ。
身支度を整えた楓が寝室を出た時、縁側に見知らぬ少女が座っていた。白く長い髪を靡かせたその少女は、白いTシャツ一枚を身につけてぶらぶらと足を揺らしている。朝焼けに照らされた白い髪が眩しく輝いていた。
「おはよ。意外と早起きなんだ?」
楓に気づいた少女が悪戯っぽく目を細めて八重歯を見せる。その少女は、おもむろに体を起こして楓に近づいてきた。サイズの合っていない大きな白いシャツの下から、無防備なふとももが覗く。
太陽の光が透けて白いシャツの下から小麦色の肌が見えるのが眩しくて、楓は目を逸らした。
「んー?」
楓の視線を追った少女はいたずらっぽく笑った。まるでおもちゃでも見つけたかのように。
まだまだ大人には程遠いが、健康的な色気のある美少女。敵意は無く、むしろ無防備すぎるくらいだ。
「な、何だよ、君は……一体どこから入って……」
その笑顔が誰かに似ていると思ったその時、少女の背後から白いしっぽが覗く。それが左右にゆっくりと揺れた瞬間、目の前にいるTシャツ姿の少女は楓が見慣れた少年の姿になったのだ。
「ケケッ、楓サン相変わらずおもしろーい! いつもそうやってボクにビクビクしてなよ」
そう言ってケラケラと笑ったのは猿神だ。楓はますます混乱した。
「い、今、女の子に……」
「ちなみに履いてるから」
猿神はシャツを捲りながら言った。その下ですっぽり隠れていたのは、相変わらず派手な柄の半ズボン。
見慣れたはずの姿が、瞬く間に少女から少年に変わった。いくら妖怪とは言え、まるで狐に化かされたような気持ちになる。
少女の姿で楓を困らせられると味をしめたのか、猿神は楽しげにもう一度少女の姿に変化すると、楓の首に両腕を巻き付けた。
「久しぶりに会えたんだから、もっと怖がりなヨ!」
ぎゅっと抱き寄せられて、豊満な胸が楓の体に触れる。咄嗟に後ずさろうとして畳の上で滑った楓は、後頭部を強打してしまった。
「い、てて……」
目を開けると、美少女──猿神が体の上にのしかかろうとしている。
「一番に会いに来てあげたんだから、もっと嬉しそうな顔しなよね、最弱陰陽師」
猿神がニヤッと犬歯を見せて笑う。白いシャツの下から眩しい小麦色の肌が見えるたび目を見張るばかりだ。
「お、お前、もう僕には会わないって……」
「はァ? 忘れちゃった。ボクが会いたくなったんだからいいじゃん」
猿神は相変わらず気分屋だ。喧嘩別れのような捨て台詞を吐いたくせに……と楓は内心毒づく。
悪戯を続行するのか、警戒した様子で見つめている楓の思惑とは真逆に、猿神は元気をなくしたように眉を下げた。
「ボクさ、ずっとこの辺が苦しいんだ。あの時からだよ、わかる?」
その手が胸を擦りながら呟くが、言葉の意味を考える余裕は今の楓にはない。
「し、知るか。医者に行け、医者に」
楓は普段よりも小さくか細い声で言う。それを見て加虐心をそそられたのか、猿神の赤い瞳が光った。金縛りだ。
「へえ……そうやって適当にあしらう気? このまま食べちゃおうかなぁ」
鋭い犬歯が覗く。人の心臓を躊躇いなく食べるその口で猿神が楓の首筋に噛み付こうとしたその時、頭上から軽快な声がかかった。
「よう、さすが俺の息子は妖怪にもモテモテ……ってかァ? 朝っぱらからお盛んだねェ」
突然声をかけてきた男の気配を察知して、猿神が楓の上から勢いよく飛び退く。同時に、楓にかけられていた金縛りも解けた。
猿神は、しっぽを膨らませて不快さたっぷりに柊を睨んでいる。
「何だよ、続けて良いんだぜ?」
「は? 何勘違いしてんの。死んじゃえよ柊」
猿神は柊に敵意を剥き出しにしている。楓は助かったと言わんばかりに全身でため息をついた。
「な、何の用だよ……」
「おう、冥鬼ちゃんのことでちょいとお前に話があってな──起きてたんならちょうどいい」
柊は何事もなかったかのように猿神から視線を外し、楓へと向き直る。冥鬼の名前が出た瞬間、楓の顔つきも真剣なものへと変わった。
「冥鬼ちゃんの具合だが──一向に改善しねェ。そこでだ、一度京都で診てもらうことになった」
ごくりと喉を鳴らして父の話を聞いていた楓だったが、その言葉は意外なもので。
「き、京都……? 何で?」
「俺の実家、京都にあんだけど。言ってなかったっけか? 生まれは兵庫だけどな」
柊は肩を竦めて悪戯に笑うと、得意げに顎髭を手で触りながら続けた。
「鬼道家には、最強と天才と名高い二人の陰陽師が居んのよ。最強はもちろんこの俺だが──まあ、引退した俺を手本にするより、現役の陰陽師を師匠にした方がいいんじゃねーかなってな」
「現役の陰陽師……」
興味を引いた様子の楓の反応に、柊がニヤッと笑う。
「鬼道家は、優秀な陰陽師を産み出しやすい理由がある。何だか分かるか?」
楓は、少し考えてから遠慮がちに口を開く。鬼道家が他の陰陽師とは違い、特別な理由。それは──。
「……妖怪の血を引いてるから?」
柊は『正解』と笑う。
「俺たちのご先祖さん、鬼道澄真は鬼の子だった。お前にもその力は眠ってんだぜ、楓。思い当たる節があるんじゃねえか?」
そう言われて、楓は魂喰蝶との戦いや水流紗雪との戦い、そして古御門泰親との戦いを思い出す。
魂喰蝶との戦いでは記憶が朧げだったが、ほぼ力のない状態で勝利することが出来たのは、今思えば妖怪の血を引いていたおかげだろう。
そして、水流紗雪との戦いでは多くの霊力を消費したにも関わらず、古御門泰親との戦いでも冥鬼を支援し、泰親に立ち向かうことが出来た。土壇場でしか発揮できない力ではあるが、確実に楓の中に秘められた力は存在しているのだ。
「京都は常夜ともっとも近い場所と言われてる──出現する妖の数も強さも、関東と比べたらダンチだぜ」
柊はそう言って、畳の上に座っている二人を交互に見下ろす。
「つーわけだから猿神、お前も一緒に来い。観光ついでに強化合宿といこうぜ」
「ボクは修行なんかしなくても強いよーだ」
「ボッコボコにされてたくせにか?」
すかさず痛いところを突かれ、猿神が眉を寄せて唸る。
「お前は確かに強い──が、心が幼すぎる。そんな性格じゃ、この先思いやられるぞ」
「ならボクよりつよーい奴でも捕まえたら?」
猿神は体を起こすと、嫌味たっぷりに柊を見上げて嘲笑する。普段よりも見下ろされているのが不快なのか、その姿は少年の姿へと変化している。
「でもボクより強い奴なんて居る? センパイも居ないしカエルの赤ちゃんはお祭りだっけ? 大五郎サンは戦いには不向き。どいつもこいつも役立たずだよねぇ──」
猿神が挑発的に楓を見下ろした。
「いっそ楓サンが今よりもっと強くなって一人で戦えば? 強い陰陽師の子孫なんでしょ、ボクが居なくても楽勝じゃん」
猿神は今にもこの場から帰りそうな勢いで捲し立てる。柊は自分の下唇を指で触りながら唸った。
「んー……それもそーだな」
「えっ」
まさかの返答に声を上げたのは猿神ではなく、楓だ。
「あの猿神様でもうちの楓の強さを引き出すことができねーのは残念だが……まあ、所詮は鬼道家の陰陽師以下だもんなぁ」
柊が顎髭を撫でながら虚空を見上げる。その発言を見過ごせないのは猿神だ。
「ボクがお前らより弱いわけないじゃん! 訂正しろよ」
「そりゃそうだ。俺がガキの頃に戦ったお前はそれはそれは強敵で、さすがの俺でも命の危機を感じるくらいだったんだからな。だが……」
柊は手で口元を隠しながら猿神に視線を合わせたが、すぐに逸らしてしまう。興味が失せたと言わんばかりに。
「猿神様は鬼道家の修行についてこれねェらしい──じゃあ楓、さっさと出かける準備しろ」
「え、あっ……今から!? ちょっと、親父……!」
慌てて呼び止めようとする楓だったが、柊は振り返りもしない。
「荷物はもう車に積んであるから、お前は必要なモンだけ持って外に出てくりゃいい。京都は暑いぜ〜?」
楓は柊と猿神を交互に見ると、少し迷ってから父親の後を追いかけた。
置いていきぼりにされて面白くないのは猿神だ。まだ、この胸の苦しみを言語化することさえできていないのに。
そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。
「ボクが鬼道家の陰陽師なんかに負けるわけないッ! 昔も今も変わんないよ。ここでお前たち親子を殺すことだって出来るんだから」
彼らの前に立ち塞がった猿神が、殺意を隠そうともせずに低く唸る。
無視を決め込んでいた柊は、着流しの胸ぐらから腕を出して顎を指でかきながら大して困ってもいないような間延びした返事をした。
「──そりゃ弱ったなァ。俺は陰陽師を引退して戦えねーし? 楓もまだまだ成長途中。今戦えば間違いなくお前さんが勝つかも」
猿神にとって百点満点とも言うべき大満足の回答。その一言で気を良くした猿神が鼻で笑った。
「当たり前じゃん! だからボクが居なきゃ楓サンは京都の妖怪に喰い殺されちゃうヨ。そしたらハクちゃんも悲しむし──そうだ! 楓サンを守ればハクちゃんも喜ぶでしょ?」
自分の力を認めさせたいばかりに、次第に饒舌になる猿神に提案され、楓は柊の表情を伺おうとする。けれど、父は息子に背を向けたままだ。
猿神に返事を求められた楓は、少し迷ってからおずおずと頷きを返した。
「そ……そうだな。お前が居てくれると心強いよ。今の僕に戦力は少ないから……」
「でしょ?」
猿神は満足そうに言ってしっぽを揺らしながら柊に近づくと、その袖を掴んで言った。
「ボクを連れていかないと後悔するヨ、柊」
柊の返事は無い。黙ったまま返事をしない柊に焦れて、猿神は眉を寄せて声を荒らげる。
「ボクが一緒に行ってあげなきゃ楓サン死んじゃうんだから! ボクも京都に連れていけって言ってるのッ!」
「──感謝する」
普段ふざけてばかりいる柊からの素直な礼を聞いて、猿神はもちろん楓も耳を疑った。すぐに猿神がニターッと満足そうに微笑む。
「一生泣いて感謝しなよ、鬼道柊」
そう言った猿神は柊の袖を離すと、跳ねるようにスキップをして廊下の奥へ向かった。
「ボク着替えてくるからッ、勝手に出かけたら二人まとめて食べちゃうからねぇ〜」
物騒な捨て台詞を残して猿神が駆けていく。
その場に残された楓は、怪訝そうな顔をして父親の背中に声をかけた。
「親父、もしかして今の……」
「さあねェ〜?」
そう言って振り返った柊は、悪童そのものといった笑顔を浮かべている。その笑みを見て、楓は全てを察した。
柊は猿神の性格を分かっていて、わざと鬼道家の名前を出したのだと。かつて、猿神は鬼道柊と戦って、彼の強さに命乞いをした過去を持つ。その出来事は、プライドの高い猿神にとって、不快極まりないものになっているからこそ、鬼道家の陰陽師以下と言われたのが許せなかったのだろう。
「冥鬼ちゃんが動けない以上、アイツとは長い付き合いになる。ガキのあしらい方を覚えとけってこと」
茶目っ気たっぷりに柊が笑う。
楓は力が抜けたように、額を押さえてため息をついた。猿神に小馬鹿にされるとすぐ言い返してしまう彼には絶対に真似出来ない芸当だ。
「……今日、部活メンバーで夏祭りなんだけど」
「そりゃ良いな、断れ」
柊は笑っていたが、その目は笑っていない。
懐から取り出したのは、炭化した破邪の札。柊の助言に従って部室の窓に貼り付けていたものだ。
「好きな女を守れるくらい強くなりてえんだろ、お前。色恋に構ってる暇なんざねーよ」
柊はそう言ってすぐに玄関に向かう。それは冷たく突き放すような声色だったが、楓は唇をまっすぐに結んだままスマートフォンのトークアプリであるRAIINを立ち上げ、断腸の思いでハクへメッセージを送る。
既読がつくのも確認せず、楓はすぐに柊の後を追った。




