【犬姫に愛されしブルーメンガルテン】14
翌日、体に火傷を負った男が鬼道家を訪問した。燃えさかるマンションから救出された御花畑帝人だ。
比較的火傷が軽かった彼は、昨日の今日でもう退院してしまったという。すぐに職務に戻るつもりでいたようだが、しばらく傍に居ていて欲しいと妻に泣きつかれたと照れくさそうに語った。
「良かったらみなさんで召し上がってください」
「す、すみません……ありがとうございます」
帝人が差し出したのは和菓子屋、橘総本家の名物《常夜香果》。楓は慌てて菓子折を受け取りながら頭を下げる。
狗神家、御花畑家双方から受け取った謝礼金はかなりの額だった。
相変わらず報道関係者は一切だんまりだ。あれだけの事件があったにも関わらず、ワイドショーや週刊誌ですら取り上げない。マンションの火災も、新聞で小さく報じただけ。まるで誘拐事件も大量殺人も無かったかのように。
「これで自由共生党はますます力をつけていくだろうな」
帝人が帰った後、ぽつりと呟いたのは古御門八雲だ。古御門家は政界とも通じていた。その中で自由共生党との関わりもあったはずだ。楓は八雲の横顔をうかがいながら口を開く。
「仙北屋瀬戸良と自由共生党……そして狐輪教、一体どんな関係があるんでしょうか」
「仙北屋は恨みに特化した一族だ。古くから国の重要人物との関わりは根深い。自由共生党と関係があっても不思議はないが……」
八雲は何か考え込むように口を閉ざした。長い前髪に隠れた琥珀色の瞳が険しく細められている。
こんな時、仙北屋瀬戸良と対峙したもう一人の男がこの場に居れば、もっと詳しい話が聞けそうなものだが……。
「……八雲さん、親父はどこです?」
「娯楽施設だろう。なぜ俺に聞く」
八雲は僅かに琥珀色の目を細めた。謝礼金を見るなり目の色を変えて喜びそうな楓の父は、朝から姿を見せていない。
「──いや……最近、ずいぶん親父と仲がいいみたいだったので。性格的に絶対合わなそうなのに」
夜も、柊が八雲の部屋に遅くまで入り浸っているのを楓は知っている。楓抜きで知り得た情報を共有しているのか、何となく仲間外れにされたような気持ちが声色に残った。そんな楓を見た八雲は、静かに瞬きをして少しだけ口元を綻ばせる。
「君は何か誤解をしている。俺は俺の役目を果たしているだけだ」
普段表情を変えない八雲が僅かに見せた笑みは、キイチを見る時のものによく似ている。
「君はキイチに似てないな」
「ど、どういう意味です?」
キイチ以外に微笑むことのない男が小さく笑うものだから、楓は意外そうに目を丸くした。
「キイチは君に劣らぬくらい立派な当主になるということだ」
八雲はそう言って常夜香果を二つ取ると、どこか機嫌良さそうに部屋へ戻って行った。
その場に取り残されて目を丸くしていた楓は、箱の中におさめられた常夜香果をひとつ手に取り、包装を剥がして一口頬張る。
甘くて、ほのかにすっぱい夏の味がした。
「かーえーでー!」
廊下を駆けながら楓を呼ぶ声が聞こえる。白いTシャツにショートパンツという涼しげな出で立ちで駆け込んできたのは彼の式神であり常夜の鬼王、冥鬼だ。
「なあ楓! オレさまめちゃくちゃ調子いいぞ! 今日はオレさまに付き合え!」
部屋に飛び込んでくるなり元気に言い放った冥鬼は、常夜香果を頬張ったままきょとんとしている楓を見て満面の笑みを浮かべる。
去年の一件からずっと寝たきりだった鬼王が、以前のように元気な姿を見せているのは何かの幻かと、楓は思わず自分の頬を抓る。
狐輪教の悪事も、自由共生党のことも何一つ解決していない。けれど、悪いことばかりではない。風は少しずついい方向へと流れている。
楓は、さりげなく袖で目尻を拭って体を起こした。
「わかったよ。着替えて支度してくる」
「へへ、女子だよなァ〜!」
冥鬼がからかうように笑う。今はその軽口すら懐かしくて、心地よくて。楓はまた隠れて、袖で目元を拭うのだった。
二人が連れ立ったのは最寄り駅。行き先など決めていなかったが、先を歩く冥鬼に任せようと楓はゆったりとした足取りで冥鬼の後を続く。
「はしゃぐなって冥鬼。体は大丈夫なのかよ」
「おう! 今日は特に調子が良いぜ! 鬼斬丸をぶん回して戦えるくらいな!」
「無理はするなよ」
楓は苦笑して冥鬼の後を追う。日傘を冥鬼に傾けて暑い日差しを遮りながらゆっくり歩こうとするが、久しぶりの外が嬉しいのか冥鬼ははしゃいだ様子で日傘の外に出てしまう。まるで幼い子供に戻ったかのような天真爛漫さだ。
「そうだ、冥鬼。パンケーキを食べに行かないか?」
楓の提案に、冥鬼は目を丸くしてみるみるうちに嬉しそうな表情を浮かべた。
冥鬼に長時間外出をさせるのは心配もあったが、公共交通機関での移動は冥鬼にとって久しぶりということもあり、嬉しそうだ。何より、楓自身が彼女に色々なものを見せてやりたかった。
以前ハクと行った商業施設の傍にある、思い出深いパンケーキ屋。さすがに夏休み初日ということもあってか店内は混みあっている。けれど、待ち時間すら楽しいと言ったふうに、冥鬼は店の内装を眺めていた。
待ち時間十五分もせずに窓際のテーブルへ案内された二人の前に、お目当てのパンケーキが運ばれてくる。白桃の乗ったふわふわのパンケーキを頬張った冥鬼は、幸せそうに頬を押さえた。
「美味いッ」
「それは良かった。最近は外に出てなかったもんな。好きなだけ食べて良いぞ」
「じゃあ遠慮なくッ!」
冥鬼は、パンケーキを口に運びながら幸せそうに笑う。楓もいつの間にか笑っていた。今だけは陰陽師、鬼道楓としてではなく、普通の高校生、鬼道楓として素の自分になれた。
珍しく笑顔を見せた楓を見て、冥鬼は赤い瞳を細めて笑う。頬をほんのり赤く染めて、足をテーブルの下でゆらゆらと揺らしながら。
「最近、色々あったみたいじゃねーか」
「まあな……」
なぜか無理してコーヒーのブラックを飲んでいる楓を見て、冥鬼はニマニマと笑いながら角砂糖とミルクを入れてやる。
楓は照れ隠しなのか、何事もなかったような顔をしてティースプーンでカップの中を混ぜていた。
「あの猿、ちっとは言うこと聞くようになったかよ?」
「全然だ。怒らせて連絡が取れない」
今度はちょうどいい甘さになったようで、楓はミルクのたっぷり足されたコーヒーを飲みながら答える。自分よりも遥かにきかん坊な猿神のことを思い出したのか、ケラケラと笑っていた冥鬼が、ふと目を細めて楓を見つめた。
「なんか──遠くなっちまったよな、オマエが」
不意に、しみじみとどこか寂しげな呟きが聞こえて、楓はコーヒーカップをソーサーへ置く。
「何言ってるんだか。僕の相棒はお前だろ?」
切れ長の赤い瞳でまっすぐに見つめられ、冥鬼は照れくさそうにはにかんだ。楓はハクの恋人なのだが、それでも彼の瞳が自分だけを映しているのは心地いい。
「へへ、すぐに元気になってオマエと一緒に戦ってやるからな! 楽しみにしとけよッ!」
その言葉が強がりであることは楓にも分かっている。冥鬼も、自分の体がどんな状態なのか知っているのだから。
「なあ──僕に、何か隠してないか?」
楓が尋ねると、冥鬼は上目がちに楓を見て犬歯を見せるように笑った。
「してねーよ」
「本当に?」
楓は疑り深い。冥鬼は少し困ったように眉を下げて肩をすくめる。
「まァ、ちょっとだけ頭がふわふわするくらいでよ、別に何もねーよ」
「無理するなよ。辛いなら帰ろうか?」
「だいじょぶだって! オマエは本当に心配性だよなァ」
あはは、と冥鬼が豪快に笑う。大丈夫と言いきられて何も言えなくなってしまった楓だが、その目は心配そうに冥鬼を見つめていた。
「でも、それが楓の良いところか」
眩しそうに目を細めた冥鬼は、近くて遠い彼を見つめて微笑む。
「親父殿が色々調べてくれてる。もしかしたら治療方法があるかもしれねーってさ」
柊から何も聞いていない楓は少しむくれたようだった。冥鬼は空になった自分の皿を手にして、フォークで皿に残ったクリームをすくいとる。
「あの人はちゃらんぽらんだけど、楓のこともオレさまのことも、よく考えてくれてるぜ」
その声色には、柊への信頼が表れている。
楓は何か考えていた様子だったが、おもむろに自分の分のパフェを冥鬼の前に差し出した。
「一口食うか?」
「良いのか!?」
楓が返事をする間もなく、冥鬼は大きな口を開けて白桃パフェを頬張った。それはどう見ても一口の量ではなかったが、冥鬼が楽しそうに笑うから楓も自然と微笑み返す。
今日は長い一日を冥鬼のために使ってやろうと心に決めて。




