【犬姫に愛されしブルーメンガルテン】11
「ど……どちら様ですか」
暗い顔をした中年の女性が、玄関の扉をほんの少しだけ開けて顔だけを覗かせた。その扉を大きく広げたのはカトシキだ。あっ、と女性が声を上げる。
「失礼いたします──」
「ちょ……ちょっと、何ですか。やめてくださ──」
遠慮がちに女性がカトシキを押しとどめようとする。しかし、それを遮ったのはカトシキよりも早く家に上がった猿神だった。
「血のにおいでいっぱーい。しかもフツーの血じゃないみたーい」
猿神は女性のことなど見えていないかのように、乱暴に押しのけて玄関を上がる。突き飛ばされてよろめいた女性を受け止めた楓は、『すみません』と言ってすぐに猿神の後を追った。
狐輪教の集会場所──そこはなんの変哲もない住宅街の一角だ。妖気も無ければ、これといった異変は感じられない。
しかし、血のにおいに敏感な彼の鼻はごまかせない。猿神の後へ続く彼らの視界を、次第に濃霧が遮っていく。
「妖怪か……?」
「似て非なるもののようですね」
カトシキの言葉通り、濃霧を体に纏うように廊下の奥から歩み寄ってきたのは、カラカラに干からびた体をした人間だ。恐らく狐輪教の信者たちだろう。その体は激しく損傷し、完全に絶命していた。
しかし、彼らは呻き声を上げながら楓たちの元へ向かってくる。これ以上の侵入を阻止するように。
「あー、ウザ。羊サンがやってネ〜」
猿神が心底面倒くさそうにため息をつくと同時に、赤い瞳が瞬いた。
彼の能力のひとつ、射程内に入った者の自由を問答無用で奪う力。それは死者に対しても有効だ。
屍人たちが足を止めた隙に、カトシキの大鎌がその首を落とす。
「私は山羊です、牛尾様」
「牛尾サマ……いいじゃんその呼び方!」
機嫌を良くした猿神が、ぱちっと瞬きをした瞬間、リビングに流れ込んできた屍人たちの動きが一斉に止まる。カトシキは後方からついてくる楓に告げた。
「結界を張っていただくことをお勧めいたします」
慌てて結界を張り始めた楓の前に立ったカトシキは、頭上で大鎌をゆっくり回転させる。大きな風圧により、屍人たちの体がバラバラと崩れて大鎌へと吸い寄せられていった。
トン、と大鎌を地面に下ろすと同時に、屍人の干からびた肉片の張り付いた骨がバラバラとカトシキの周囲に落ちる。骨を拾い上げて弄ぼうとしている猿神を注意して、辺りを警戒する楓の周囲に敵の気配は感じられない。
「一体……ここで何が行われていたんでしょうか」
「さあ。私は王牙様ではありませんから、難しいことは分かりません」
カトシキが瞼を伏せたまま淡々と答える。その時、山羊の耳が複数の足音を察知した。それは楓にも聞こえたようで、すぐにカトシキを守るように立ち塞がる。
「カトシキさんは、早く王牙くんのところに行ってください」
「ケケッ、こう見えて陰陽師だもんねぇ?」
からかうように猿神が笑った。その赤い目がカトシキを見る。
「何ボサッとしてんの〜? 早くぶちょーを助けてよ、羊サン」
カトシキは目を伏せたまま黙っていたが、やがて深く頭を下げて水滴が染み込むように、その影を床に溶かした。
楓たちの留まった部屋に向かう足音は三人、五人──さらに増えてくる。ただの人間とは思えない。恐らく精鋭揃いだろう。
「……部長って、まるで学生みたいな言い方だな」
「だってぶちょーは山岳部のぶちょーだもん」
古御門家での戦いを思い出したのか、緊張した様子の楓に構うことなく、猿神はケロッとした顔で答える。
「あの学校、どうぶつだろうと妖怪だろうと通って良いんだよ。御花畑帝人がそういう風に創ったからネ〜」
「ちょっと待て。お前、通ってたのか? 王牙くんと同じ学校に?」
ズボンのポケットに両手を入れて話を続ける猿神に流されそうになりながら、楓が慌てて口を挟む。
猿神は犬歯を見せてニヤーッと笑った。
「そうだよ。言っとくけど東妖高校より偏差値高いんだから」
こめかみに指を当てながら、悔しい? とからかうように笑う猿神の挑発にも、今の楓は怒りどころか恐怖すらいつの間にか消え失せていた。
「……何で、学校に通おうと思ったんだ?」
猿神は赤い瞳を瞬き、怪訝そうに眉を寄せて『はあ?』と声を上げる。
「楓サンやハクちゃんだって通ってるじゃん。行ってみたら、結構悪くなかったんだよ。それだけ。悪い?」
猿神が屈託のない顔で首を傾げた。楓はかぶりを振って『悪くない』と言いかける。
その時、暗闇の中で猿神の瞳が鈍く光った。見つめているのは閉ざされた扉の先。
「来るよ」
その言葉と共に、白装束に身を包んだ人間たちが楓たちの前へとやってくる。
およそ十人は居るだろうか。あっという間に、部屋の中は白装束でいっぱいになった。
「これは意外なお客様──」
白装束が言った。全員狐の仮面を被っているため、誰が喋ったのかすら分からない。
会話を拒否するように、銃声と共に信者の額が撃ち抜かれる。猿神の仕業だ。
「待て、猿神!」
楓の制止も待たずに、冷酷な銃声は彼らを次々に撃ち抜いていく。銃弾の代わりに妖気が込められた彼の銃は装填の手間がなく、その場に証拠も残さない。まるで殺し屋だ。
「ケケッ、安心しなよ」
猿神がカチリと引き金を引いて再度信者を撃ち抜いた。顔を覆っていた仮面が砕かれて地面に落ちる。
「お前、もう死んでるから」
バラバラと音を立てて信者たちの仮面が地面に落ちる。その顔は、干からびて土気色になっていた。
楓は、死体の顔をおずおずと覗き込んでそれが既に絶命しているのを確認する。その額には、怨憎符によく似た札が貼られていた。
妖怪を凶暴化させる呪符、怨憎符。その恐ろしさを、楓は身を持って体験している。
かつて、怨憎符を使って陰陽師狩りをしていた古御門泰親は楓たちが倒した。彼に協力していた狗神鏡也も、尾崎九兵衛も既にこの世には居ない。
「一体、誰がこんな──」
ぽつりと呟いた楓の顔前に、猿神の銃口が向けられていた。青ざめる楓を見下ろして、ニヤリと猿神が笑う。
「ばーん」
「──!」
引き金が引かれ、楓が咄嗟に目を瞑る。猿神の狙いは、楓の背後だ。楓に襲いかかろうとしていた信者が仮面を砕かれ、呆気なく床に倒れた。
「び、びっくりした……」
「やっぱ久々に人間を殺すとスカッとするなあ〜。もう死んでるけど〜!」
驚いている楓のことなど構わず、死体を蹴りあげて猿神が笑っている。子供のように靴を鳴らしながら、開放感たっぷりの顔で。
撃ち殺された大量の信者の中に、無傷のまま立っている人物が居る。それは狐面の下で不気味に微笑んでいた。
「野蛮ですね。あなた様は本来、人間に信仰されるべくしてお生まれになったのでしょうに」
「ごちゃごちゃうるさいなぁ〜。お前は何で死なないの?」
死体を蹴り飛ばしながら猿神が銃口を向ける。返事を聞くことなくその額を撃ち抜くが、それは壁を抉っただけだった。
ふふ、と狐面の人物が笑う。
「それは私の実体がここには無いからです」
穏やかな声で言いながら、白装束から細い腕が覗く。そのしなやかな手が絡み合い、術式を結んだ。
「目覚めなさい、黒衣の天使──」
その言葉と共に、猿神が殺したはずの死体たちから黒い煙が舞い上がる。それは渦を巻きながら、やがて猿神よりもずっと体の大きな黒い影の怪物へと変貌した。
「……最悪」
猿神が忌々しげに舌打ちする。その姿は鬼原ハクとデートした際に遭遇したあの怪物と同じだ。怪物は歯を見せて下卑た声で笑った。
『サイアク』
「は。誰が真似していいなんて言った?」
いつもの調子で嫌味たっぷりに言ってやるが、怪物には挑発など通用しない。まるで木霊のように自分に返ってくるだけだ。
(木霊坊だと思ってたけど……違う。アイツ、何した……?)
猿神の視線が白装束に向けられた時だった。
ほんの僅かな隙をついて怪物の大きな拳がビュンと音を立てる。拳は猿神の頭を殴りつけ、その体が壁に叩きつけられる。
「げえッ……」
丸太のような太い腕でまともに喰らったその一撃は即死級のものだ。壁は崩れ落ち、猿神の体は隣の部屋まで転がった。
人の身はあまりにも脆く、壊れやすい。
「牛尾日吉様──例え本来の姿になっても、あなた様に勝ち目はありません」
猿神は柱にもたれたまま、白目を向いて動かない。
大きな体を左右に揺らしながら近づいてきた怪物が、猿神の頭を片手で掴んで持ち上げた。
『怖イ、ヨ、痛イヨ……オネエチャン……グフ、グフ……』
怪物が低く笑いながら言った。白目を向いた眼球が僅かに痙攣する。
「……だ、ま……」
猿神が鮮血で顔を真っ赤に染めながら呟いた。意識など既になかったが、怪物の攻撃をもう一度喰らえば今度こそ死ぬ。
最近痛くてムカつくことばかりだ、と猿神は遠ざかる意識の中で思った。
「炎狗!」
楓の数珠から小さな炎の狗が飛び出して怪物に食らいつく。その衝撃で、怪物の手から猿神の体が投げ出された。
ふわりと宙を浮いた体を抱きとめたのは、姉でも妹でも、鬼原ハクでもない。
「猿神、しっかりしろ……」
自分の体を抱きとめているのが楓であると気づいた時、彼は不思議と安心していた。
「なん、で……ボクの、邪魔ばっか……」
それでも口から出るのはいつもの憎まれ口。楓は、痛ましい姿になった猿神を見て一言『ごめん』と呟いた。
「お前が学校に通ってたことなんて知らなかった。お前は人を殺して、食べて……酷いことをするのが好きな、残酷な奴だとばかり思ってたから」
何の話、と猿神が掠れた声で呟く。白装束たちが部屋に押し入る直前の会話のことだと気づいたのは、楓が古御門八雲に託された札を使って猿神の傷を回復した後だった。
かなりの重傷だったためか、傷の治りが遅い。痛みも後からじくじくと広がってくる。顔を顰める猿神を見つめて、『でも』と呟いた楓の口角が少しだけ上がった。
「そうじゃなかった。僕がお前のことを全然知らなかったんだ。……知ろうとしなかった」
普段仏頂面ばかりで、かわいげのないことを口にするだけの陰陽師。
今際の際に優しくされたからって絆されるほど純粋な生き方はしていない。まして、彼の微笑みを綺麗だと思うなんて。
(どうかしてる……ボク)
痛みに喘ぎながら、猿神の赤い瞳が僅かに揺れた。
怪物が鼻を鳴らしながら、壁を崩して近づいてくる。
「そこに居てくれ」
楓は猿神を守るように体を起こすと、ポケットの中から二枚の札を取り出した。ひとつは古御門八雲から渡されたもの。そしてもう一枚は無地の札だ。
冥鬼が倒れてから霊力のコントロールも上手くいかず、念写にも時間がかかるようになった今の楓では、自分自身の力で戦うことはできない。
しかし、彼が選んだのは無地の札だった。
「急急如律令──夜鬼祓い!」
怪物の体を、漆黒のカーテンが薙ぎ払う。パラパラと楓の手の中で札が燃え尽きた。念写が不十分だったのか、霊力の使い方が定まっていないようだ。
しかし、彼は以前のように悲観しない。
「お前は死なせない。それだけは信じてくれ、猿神」
最弱陰陽師は目の前の恐怖を振り払うように言った。




