【犬姫に愛されしブルーメンガルテン】5
楓と猿神が電車に揺られていた頃のこと。不気味なほど静まり返った分譲マンションの前に、人影が三つあった。一人は若い女。その女に詰め寄っているのは記者らしき若い男だった。
「あんた本当にしつこいわねぇ。御花畑なんて知らないって言ってるでしょ」
若い女は若い男を言い負かすほどの圧をかけて捲し立てる。若い男と一緒に居る妙齢の女性が、不安そうに『進くん』と声をかけた。
目の前の女の剣幕に怯みそうになってしまった進少年だが、負けじと口を開く。
「仙北屋江都さんと言いましたよね。いつからここに住んでるんですか」
「あんたに関係ある?」
スマホを弄りながらこの場から立ち去ろうとする江都を、すかさず進が回り込んで畳み掛ける。江都は不快感を隠す様子もなく舌打ちした。
目を合わせるのも嫌なのか、ポーチから煙草を取り出してそれを赤い唇で咥える。オイル残量の少ないライターをカチカチと三回ほど鳴らして煙草に火をつけた。
「大体、ここが葛西菖蒲のマンションだからって何か問題でも?」
「このマンションから、行方不明になっている御花畑帝人氏の位置情報が確認されたんですよ」
江都は進に目も合わせず、気だるそうにスマホを弄りながら黙っている。彼女が黙っているのをいい事に進が続けた。
「御花畑帝人氏は職業柄、自分の現在位置は必ず奥様に知らせるようにしていました。そして息子である王牙くんも同様に、自分の位置情報をご両親に知らせるように設定しているそうです」
進は警戒を解かずに『迂闊でしたね』と笑う。江都にとっては大したダメージでもないのか、どうでも良さそうに鼻を鳴らすだけだ。まるで他人事のような顔をして。
「生放送中にニュースを取り下げさせたのも葛西議員でしょ?」
続けて進が問いかける。江都は涼しげな顔をして黙っていたが、不意に『あんたさ』と低い声で言った。
「この仕事を始めて何年目?」
「……い、一年──と、三ヶ月くらい、です」
直前まで饒舌だった進が口篭り、その目は少しだけ泳いでいる。
「そ、それが何か?」
「別に。若そうだもんね」
江都はそう言って煙草の煙をゆっくりと吐き出す。それはまるで生きているかのように江都の周囲を漂った。
「探偵ごっこは程々にしたら? 本当は記者じゃないんでしょ、ぼうや」
まるで子供を相手にするように江都が笑う。
ふと、頭上を見つめた御花畑夫人が顔色を変えた。マンションの一角で僅かに動いた不穏な影の正体、それは明らかにこちらへ殺意を持った者だ。
「進くんッ、上!」
夫人が声を上げた時、進は咄嗟に夫人を庇おうと狙撃手の視界の前に立ち塞がった。狙撃手の指が拳銃の引き金を引いた次の瞬間、神業とも言える動作で異形の角を生やした燕尾姿の悪魔が、いとも容易く手のひらで銃弾を受け止める。
黒と白にくっきり分かれた長い髪を靡かせながら、二人を庇うように立ったその人物は目を伏せたまま後方に声をかけた。
「奥様、遅れまして申し訳ございません。そちらの勇気ある御仁にも、我が主から後ほど謝礼をさせてください」
突如銃弾を受け止めた黒スーツの中性的な人物。その神秘的とも、邪悪とも思える不思議な雰囲気に圧倒され、進は完全に沈黙してしまう。
「異形の角を持った御花畑の使用人……あんたが悪魔ね」
「お初にお目にかかります、見知らぬ方」
カトシキは優雅に一礼をして江都へ挨拶をした。開いたその手のひらに先程受け止めたはずの銃弾が握られていないのを見て、進が僅かに目を見張る。
「帝人様と王牙様をお返しください。このカトシキの権限では警察を動かすことは出来ませんから」
江都は目を細めて煙草の煙を吐き出した。
「断る、と言ったら?」
「ご冗談を。これはお願いしているわけではございません」
カトシキが穏やかな声色で白い手袋を深く嵌め直す。そう言って開かれた赤い瞳は、これっぽっちも笑っていなかった。
「これ以上、私のお花畑を踏み荒らさないでくださいませ」
足元の影から黒い鎌が出現し、カトシキの手の中へ収まる。どこからともなく鎌が出現したことに驚いた進が素っ頓狂な声を上げて尻もちをついた。しかし、誰も進のように驚いている様子はない。
「それで──あんたはどうしたいの? 私を殺す?」
「それはこのカトシキの仕事ではございません」
カトシキが答えると、江都は口の端を吊り上げて笑った。
「悪魔のくせにずいぶん大人しいじゃない」
江都の言葉と共に、彼女の指が煙草の灰を地面に落とす。いつの間にか、周囲を濃霧が包み始めていた。カトシキは記者と夫人を守るように後退する。
「生きて返す気もないけどね」
濃霧の中で銃声が聞こえる。カトシキはそれらを全て片手で受け止めたが、地面に撃ち込まれた何かに当たりそうになった進が情けない悲鳴を上げながら、カトシキの後ろに隠れた。足元には、打ち込まれたはずの銃弾の代わりに、耳まで裂けた口を持った管狐が潜んでいる。
「ひいいっ!?」
「おやおや、お気をつけくださいませ」
カトシキは何とも思っていないような声でその管狐を踏みつける。風船が破裂するような音を立てて管狐が弾け飛んだ。
手を振るって濃霧を退けるカトシキの目の前には江都が立っている。先程と変わらず、煙草を口に咥えて。
「かったるいわね、あんた」
江都の言葉と共にマンションから銃声が聞こえる。カトシキは大鎌を放り投げると、夫人と進を小脇に抱えてその場から飛び上がる。振り上げられた大鎌から放たれた風圧で窓ガラスが割れ、破片が狙撃手の体を切り裂いた。しばらく銃は握れないだろう。
彼らを安全な場所に下ろしたカトシキは、心配そうな夫人に微笑みかける。
「奥様、どうかほんの少しばかり目を瞑っていてくださいませ」
カトシキはそう言って、空中でくるくると回転している大鎌を受け止めた。伏せられたままの瞳がゆっくりと開かれる。
「このカトシキ・ユヴェーレン。御花畑家の使用人として、お務めを果たしてまいります」
血のように赤い瞳の中で、横長に伸びた黒い瞳孔がキュッと細められた。




