【黒百合の無垢な呪いは残り香に】2
「すまない、待たせた」
六月某日、晴れ。
花屋から出てきた八雲が車に乗り込みながら言った。『煙草』と柊が手を出すと、露骨に呆れた顔をしてビニール袋の中から煙草のケースを取り出す。
「おい、これ五ミリじゃねーか」
「悪かったな。俺は煙草を吸わないから分からん」
これっぽっちも悪びれた様子を見せずにシートベルトを締める八雲の隣で、柊が煙草を咥えた。
「これを機に、本数を減らしたらどうだ。子供たちや──自分の体のためにもな」
助手席から見る八雲の顔は、ちょうど琥珀色の瞳がよく見える。その表情は普段よりも穏やかに見えた。
「お前は俺のおふくろかァ?」
「撃ち殺すぞ」
照れる様子もない八雲が物騒な台詞を吐く。柊は子供のように悪戯っぽく笑いながら煙草に火をつけた。
鬼道すみれの墓は郊外にある。そこは、古御門家が所有する墓地の一角だ。彼女を鬼道家に迎え入れた時、古御門泰親が建ててくれたものだ。いずれ、柊や楓もすみれと同じ場所に入るだろう。
「ンだよ今日は。馬鹿あちーなァ」
車から降りて思わず柊は顰めっ面をした。いかにエアコンの効いた車内が快適だったか思い知らされるほど、外は蒸していた。
今年は、二十日以上も早く梅雨明けをするという。梅雨入りが例年より早かったせいもあり、春からいきなり夏になったような気もするし、不快な湿度のせいでいつまでも梅雨が明けていないような気さえする。
「これでも飲んでいろ」
道中で買ったのか、ビニール袋の中身をより分けていた八雲がペットボトルのサイダーを取り出した。墓掃除をするための軍手やゴミ袋を手に持って、花束を胸に抱いている。
柊は嬉々としてペットボトルの蓋を開けて口をつけた。清涼感のある喉越しは、幾分不快さが紛れる。
「用意が良いねえ、八雲ママ」
「行くぞ」
茶化す柊にいちいち怒るのも馬鹿らしくなってきたのか、八雲は鬼道家の手桶に水をたっぷりと入れて、それを柊に持たせた。手桶には、以前墓石を洗う時に使ったであろう手ぬぐいが入っている。それもずいぶんと年月が経っているようだ。
「たまには顔を見せたらどうだ」
「すみれはこんなシケたとこにいねェよ。ここに居んの」
柊は自分の胸を指しながら笑う。呆れた視線を向けながら鬼道家の墓に向かう八雲の視線の先に、それはあった。
周りの墓と同じように、そこには鬼道家の真新しい墓石がある。誰かが墓参りに来たのか、線香が立ち上っていた。
怪訝に思いながら墓石に近づいた八雲が目を見張る。そこに供えられた白い百合の花が、全て首を切られた状態で花瓶の下に落ちていた。それが人の手によって切られたのは明らかだ。その代わり、花瓶に入っているのは黒い百合の花。
「よりにもよって奥様の名前の花を……」
八雲が眉を寄せて花瓶から黒百合を引き抜いた。柊は火のついていない煙草を咥えて、ライターをカチカチと鳴らしながらその様子を眺めている。
鬼道すみれは、百合が好きだった。妹と同じ名前だと言ってこの香りを纏っていたから、よく覚えている。花に興味がなかった柊も、いつしか彼女の影響でその香りが好きになった。
二人の、思い出の花。
「白百合と黒百合……」
ぽつりと柊が呟く。
あの時、海斗たちの命を狙った人物が纏っていた香りも百合ではなかったか。
「どうした、鬼道──」
八雲が怪訝そうに柊へ振り返る。その顔が、ふと険しいものへ変わった。カチッと音を立ててライターの火を煙草につけた柊が鼻から煙を吐き出す。
「何匹だ?」
「二、三……五匹。まるで見計らったかのように気配を出してきたな」
八雲はそう言って気配のする方向へ視線を向ける。墓石の影になった部分から、黒い手が何本も伸びていた。
「墓掃除しようぜ」
柊の声と共に、彼の煙草の煙から炎が弧を描いて地面に降り立つ。それは狼のような様相をした炎の獣、炎狗だ。
陰陽師の気配を感じ取って襲いかかってきた黒い影の腕を、炎狗は呆気なく噛みちぎって煤へと変えた。
「へえ、今度は術も効くわけね」
「油断するな。まだ来る」
八雲の指摘通り、その黒い影は鬼道家の墓から湧き出すようにその腕を伸ばしてくる。
「知恵の燈──文月」
八雲の号令と共に、彼の体を若葉色の衣が纏う。両手の指で輪を作り、墓を囲うように覗き込んで異変を探った。
文月の能力によって、敵の隠された弱点がその手の中に映し出される。
「──墓の下に何か、不可解なものがある」
「嫁の墓荒らししろってか? 馬鹿言ってんじゃねェよ」
柊はそう言って、襲いかかってくる黒影たちを炎狗の力で煤へ変えていく。
「このまま日が暮れるまで戦い続ける気か? それこそ、この墓地で眠る者たちの妨げになる」
「ああ、だりぃ──」
柊はがしがしと髪をかくと、炎狗に黒影の相手を任せて墓石へ近づいた。足元の汚れた墓石を手で撫でる。確かにその下──納骨室から得体の知れないものの気配を感じた。天板の隙間に手を入れて持ち上げようとするが、思いのほか重量があり上手くいかない。
「やっべ、タンマだ。腰が逝く……」
「ふざけてる場合か。弥生!」
八雲の号令と共に赤い衣が立ち上り、柊の肩にふわりとかかって消えた。それによって、柊の身体能力は一時的に向上する。当然、墓石を持ち上げることも容易い。
サポート特化の式神、十二神晶屍鬼。陰陽師なら喉から手が出るほど欲しい古御門家の至宝。それも同時に二体も顕現させて操るのは、非常に精密さが求められる。強い妖を調伏するために必要な陰陽師の霊力よりも、術者本人の努力がなければ操れるものではない。
「前から思ってたけど、お前さん器用だよな」
「さっさと調べろ」
八雲に言われるまま、持ち上げた天板を退けると、そこには冷たい納骨室がある。すみれの花があしらわれた骨壷が真下に置かれていた。
その骨壷を覆うように、不気味な札がベタベタと貼られている。それは、呪いの紋が記された札。明らかに誰かが骨壷に貼り付けたものだ。迂闊に触れば呪いに触れて痛い目を見るだろう。
「札を剥がしたいなら壺ごと壊せってか? 好きな女の骨壷だぜ? んな惨いこと出来るわけ……」
言いかけて柊が笑う。
「──ねェとか言うと思ったか」
その言葉と共に赤い瞳が光った。即座に骨壷ごと炎に包まれ、札が焼け落ちていく。同時に、無限に湧いていた黒い影たちも煤と化して消えた。
「すまない、嫌な役目を」
「あ? 良いんだよ別に。だってこの中にゃ──何も入ってなかったからな」
柊はそう言って、燃える骨壷を見下ろした。
「すみれの遺体は、あんまりにも酷い有様だったってんでお義父さんが供養したんだと。俺はアイツの死に目にも会えてねェのよ」
柊の説明を聞いて、八雲が次第に怪訝な表情へと変わる。
それはつまり……。
「札を貼り付けた者は……この中に奥様が居ないことを知っていたのか?」
「さあね」
すみれの遺体を埋葬した泰親はもう居ない。直接すみれの死に関わったのはゆりだけだが、その彼女も今は昏睡状態だ。
「とりあえずよ、もういっぺんさっきの弥生、かけてくんね?」
柊は、退かしたままの天板を軽く手で叩きながら苦笑する。
墓前に供えられた百合の花が、風もないのに揺れていた。




