【黒百合の無垢な呪いは残り香に】1
そこに愛はない。ただ必要だから肌を重ねるだけ。食事や睡眠のみよりも、彼との同衾は霊力回復には効果的だ。ついでに溜まっているものも発散出来て都合が良い。
鬼道柊は、事が終わるなりさっさと背中を向けて寝る体勢に入った長い髪の男に声をかけた。
「なあ、好きな奴以外に抱かれるってフツーに考えて嫌じゃねえ?」
「お前の力はキイチを守るために必ず必要になる。俺の意思など関係ない」
無垢で下世話な問いかけにも、古御門八雲は淡々と言い切る。
古御門家を立て直すには、一刻も早くキイチを当主にしなければならない。しかし──当の本人は幼すぎてその意味を理解すらしていないことも分かっている。
「何を急いでんだか。別に当主なんてよ、成人してからでも良いだろが。弱くても当主やってる奴が身内に居るんだし」
ケケッと笑う男の声を背中で聞きながら、八雲が前髪をかきあげた。室内の行燈に照らされた琥珀色が鈍く光る。
「古御門家は政界をも動かすことが出来る立場にある。一部のよからぬことを企む者たちを抑止するための役割もあった。だが、今は古御門家当主の座は空席……既に不穏な事件も起きている」
何かを思い出したのか、柊の視線が泳ぐ。八雲も同じことを考えていたようだ。
キイチを狙った正体不明の影と、仙北屋の人形。謎の新興宗教、狐輪教。そして……古御門家当主、古御門泰親の豹変。最後に関しては、例え狗神鏡也と尾崎九兵衛の介入があったとしても、きっと無関係ではない。
柊は八雲の長い髪を手で弄び、布団の上にすとんと落ちる毛先を眺めながら考え込むように黙っていた。
そんな柊の心中を知ってか知らずか、八雲は背を向けたまま口を開く。
「明日、鬼道すみれの墓に行くぞ」
「ああ!?」
予想すらしていなかった意外な名前が八雲の口から飛び出してきた。柊は思わず怒ったような大きな声を上げる。
八雲はゆっくりと体を起こし、はらはらと肩にかかる長い髪を結い直しながら振り返った。
「その後は奥様の見舞いへ。いいな?」
柊は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていたが、やがて長い沈黙の後に自分の髪をガシガシとかいて『わーったよ』と答える。元より拒否権はないのだろう。
彼が言う『奥様』に会うのは、柊が古御門家で襲われた時以来。キイチの母親であり古御門泰親の次女、古御門ゆりは昨年のハロウィンの日、猛スピードで突っ込んできた車にはねられた。その日からずっと、長い昏睡状態が続いている。
ゆりとの思い出は、柊がまだ学生だった頃まで遡る。古御門すみれと交際するようになって古御門家に顔を出した柊が、すみれによく似た薄幸の美少女と出会った。体が弱く、外に出られない少女に、柊は外の娯楽や妖怪の話、身の上話などを聞かせた。
彼女にとってすみれは大切な姉だった。姉妹仲も決して悪くなかったはずだ。
「……」
脳裏には今でもあの日のことがよみがえる。柊は、ため息を飲み込んで煙草を咥えた。




