【青嵐からくれないの白と黒】10
「安心しろ、海斗。オマエの体には触れない。我がオマエに近づくこともない」
美燈夜は刀を構えたまま口元に笑みを浮かべた。黒い腕にがんじがらめにされた海斗はかぶりを振るが、強く締め付けられて大きな声が出せない状況にある。
「違ッ……みと──」
彼女の名前を呼ぼうとした時だった。美燈夜が鬼斬丸を振り上げる。
「はッ!」
海斗の体を拘束していた黒い腕が、瞬く間に一刀両断される。目にも留まらない速さで仕留められた黒い腕は、煤となってハラハラと地面に落ちた。
「他愛もねェ」
あっという間に全てを斬り捨てた美燈夜は、宣言通り距離をとったまま静かに刀を鞘に納めようとする。
「ち、違うよ美燈夜!」
「何が違うんだよ?」
怪訝そうな顔をする美燈夜に、海斗は足をふるわせながら言った。
「ほ、本当の敵はさっきのじゃない!」
「はあ? 何言ってんだオマエ」
「このままじゃ、また僕たち全員殺される──ッ!」
海斗は『また』と言った。その場で惚けていた汐里がゆっくりと顔を上げる。
「海斗……これで何回目? お母さんはね、二回目なの。一回目はここに来る途中だったと思うんだけど……よく覚えてなくって」
「五回目だよッ……」
「おい、オマエらが何言ってるのかわかんねえよ。一体何が──」
不思議な会話を続ける二人に美燈夜が口を挟もうとした時、首の後ろで強烈な殺気を感じて鬼斬丸を構える。
ずん、と地面を震撼させる音が響いて、美燈夜目掛けて振り下ろされた長物が鬼斬丸と激しく擦れ合った。
(コイツ……つ、強いッ……!)
ビリビリとした痺れを感じながら、鬼斬丸に霊力を込める。長物を手にしたその人物が口元を歪めて微笑んだ。
「あらあら、僕ちゃんが余計なこと言わはるから警戒されたやないの。困るわぁ……ほんまに」
「うぐッ……」
長物を受け止めきれず、美燈夜の体が体勢を崩す。しかし何とか直撃は避けられたようだ。すぐに距離を取りながら鬼斬丸を構えた。
美燈夜に襲いかかったのは、和服姿の麗人。金糸雀色の和服で細身の体を包んだその人物は、穏やかに微笑みながらゆっくりと歩み寄る。
「かんにんえ? お嬢ちゃんたちはここで退場。バイバイ」
美燈夜には、この麗人がひと目で狂人であると分かった。かろうじて穏やかに振る舞ってはいるが、間違いなくまともな人間ではない。妖にも近い不気味な雰囲気を纏っており、かなりの手練だと分かる。
普通に戦っても勝ち目は無い。二人を守りながら戦うことすら出来ないだろう。
「その首、ボクにくれはる覚悟は決まった?」
麗人が淑やかに笑った──その時だった。
「ったく、いつからウチは禁煙になったんだよ。八雲の野郎〜……」
軽快な声と共に鬼道家の玄関から、家主が姿を現した。便所サンダルを引っ掛けたボサボサ頭の男は、懐から煙草を取り出しながら汐里たちに気づいて顔を上げる。
「よォ汐里ちゃん。やっぱり一緒に夕飯食ってく?」
軽快な口調で尋ねた男は、汐里と美燈夜、そしてぽかんとしている海斗を見て不敵に笑う。
「おじさん逃げて!」
海斗の声と共に風が唸った。長物を手にした麗人が、柊の首を狙って飛びかかってくる。
「あー?」
柊は頭を傾げるようにして海斗の視線を追う。
まさに、目と鼻の先だった。咄嗟に顔を背けて長物を避ける。数本の髪が、はらりと宙を舞った。海斗の一声がなければ、脳天を貫かれていたのだ。
「あ、っぶねえ……」
口の端を上げて笑った柊のこめかみに汗が伝う。息付く暇も与えず、麗人は再び大きな長物を振り上げた。それは確実に命を奪うため、真っ直ぐに柊の心臓を狙ってくる。
柊はすぐに体勢を整えようとするが、その暇さえ与えない。後ずさりながら麗人の攻撃を避けるだけで精一杯だ。油断すれば命はない──それだけの殺気が彼にはあった。
「てめッ……」
殺意のこもった攻撃は止まない。最強の陰陽師である男を、正体不明の麗人はたった一本の長物で追い詰めていく。柊は舌打ちをした。
「いい加減……しつけーなァ!」
長物を握るその手首を掴んで力任せに引き寄せようとした時、どこかで嗅いだ優しい花がふわりと香る。それは、柊の大好きな匂い。生涯ただ一人の愛した彼女が纏っていた、純潔で無垢な花の香り。
「──ぐッ!」
「くふふ……」
思考が止まった柊の隙を麗人は見逃さない。すぐに手を振り払って、柄の部分が柊の胸を突いた。
痛みに呻き、よろめく柊の頭上めがけて、鈍く光る薙刀が振り下ろされる。今度こそ彼の命を奪うために。
「危ないッ……!」
思わず海斗が悲鳴を上げて顔を覆う。しかし、小さな呻き声が聞こえて薄目を開けると……。
後方へと麗人が飛び退っていた。その足が僅かによろめいている。どうやら反撃を喰らったらしく、片手で腹を押さえていた。
力づくで長物を奪い取ることに成功したのか、それは柊の手の中にある。それを麗人に向かって放り投げながら柊が言った。
「ご挨拶だなァ──丸腰の人間にいきなり斬りかかって来るとかよォ……。どこのどなたさん?」
夕日を浴びたその顔は海斗たちには見えない。麗人は腹を押さえたまま俯きがちにむせていたが、やがて肩を震わせて低く笑う。
「く、ふふ……ほんま、いけずなお人やね」
「あ? お前どっかで──」
柊が怪訝そうに眉を寄せる。しかしそれには答えず、金糸雀色の和服に包まれた体は影に沈み込むようにして消えた。その場には紙で出来た不気味な人形が落ちているだけだ。
「お、終わった……の?」
「──みたいだな」
柊はそう言って地面に落ちた人形を拾い上げると、便所サンダルの底を引きずるように歩きながら海斗たちの元までやってきた。
その赤い目が、海斗の厚く長い前髪に留まる。柊は何を思ったのか、その前髪を指先で軽く払った。厚い前髪の下には、不安そうに柊を見つめる大きな瞳がある。
「へえ、あのオタクくんと汐里ちゃんの子か? オタクくんそっくりじゃねーか」
「ふふふ、そうでしょ? 隼人さんに似てかわいいの〜♡」
汐里は嬉しそうに両手を合わせて惚気けた。その親しげな様子から、海斗はようやく状況を理解する。
この飄々とした男こそが楓の父なのだ。楓の大切にしていた本を売ってその金でソシャゲを楽しんだり、若い頃に祖父の怒りを買って店を出入り禁止にされたりとあまり良い話を聞かないが……。
「あ、あの……ありがとうございます」
柊は、礼を言う海斗の頭と肩を一通りぺたぺたと触った後、突然その背中を手のひらで思い切り叩いた。
「おぎゃあッ!?」
「おう、元気だな」
柊はケラケラと笑って海斗の体を美燈夜に預ける。
海斗のことを思って慌てて距離を取ろうとする美燈夜だったが、柊は何事もなかったように煙草に火をつけながら言った。
「大丈夫だぜ、祓っといたから」
ふう、と紫煙を立ち上らせながら満足そうに柊が笑う。
「橘家は昔っから憑かれやすいんだよ。その小僧は特に女難の相がある。要は俺みたいにモテるってことな」
柊の説明に、美燈夜も汐里も、当の海斗ですらぽかんとしている。確かに、美燈夜の傍にいても海斗に異常は見られない。
「じゃ、じゃあ海斗は治ったのっ? わあ〜ん!」
「ちょ、お母さん苦しい……」
感極まった汐里の腕の中で海斗がもがく。息子の女性恐怖症が病気ではなかったことが嬉しくて、美燈夜も海斗も無事で、心から安堵していた。
「お母さんちょっと退いて──美燈夜……ごめんねっ! それから……ありがとうっ……」
海斗はさりげなく汐里の腕から逃れて美燈夜の前に進み出た。躊躇いがちに美燈夜の手を取る。ずっと少年だと思っていた美燈夜の手は、とても小さく感じられた。
「お別れなんて……絶対しない。だから……一緒に、帰ろう?」
涙ぐみながら海斗が懇願する。そんな海斗の涙を指で拭ってやりながら、まるで弟でも見るような目で微笑む美燈夜の瞳からも海斗と同じ涙が流れていた。
仲直りをした子供たちを遠巻きに見ながら、鬼道柊は懐に仕舞った人形の紙を取り出す。それには黒い墨で呪いの紋が記されていた不気味な人形。恐らく仙北屋のものだ。
やがて、柊は深いため息まじりに寝癖のついた自分の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「あー……だりぃな」
それは人知れず面倒くさそうに。それでいて苛立ったように。




