【椿女】3
「おにいちゃあ~ん!」
椿女の拘束が解けた冥鬼が、泣きながら慌てて駆け寄ってくる。遅れてゴウ先輩と小鳥遊先輩もやってきた。
「す、すっげえ……鬼道、オマエめちゃくちゃかっこよかったにゃあ!」
興奮気味にゴウ先輩が僕の背中をパン、と叩く。
その瞬間、それまで羽根のように軽かった体に激痛が走った。同時に、全身を絶叫マシンで振り回されたかのような感覚が一斉に襲ってくる。込み上げてくる強烈な吐き気が、抑えられないッ……!
僕は思わず口を押さえてその場にうずくまった。
「ぉ゛うぇえッ……」
食事中の皆さん、そして先輩たちすみません。僕は逆流してきた胃の中のものを盛大に戻してしまった。
筋肉痛を何十倍、何百倍にもしたような強烈な痛み、および吐き気が止まらない。
そんな僕を見下ろして呆れたように鼻を鳴らしたのは椿女だった。
「やれやれ……あれだけかっこつけてたくせに締まらない子ね」
そう言った椿女は、簪を僕に差し出して言った。
「はいこれ。あんたが欲しがってた物よ」
「うっ……ぐぇ゛え……」
返事ができない。というか、身動きひとつできないのだ。筋肉痛と猛烈な吐き気が止まらず、喋ることすらままならない。
「おにーちゃん、だいじょうぶ?」
心配そうに冥鬼が僕にしがみつく。しかし僕の体はそれだけで半端ない吐き気でいっぱいだ。というかそんな力いっぱい揺さぶらないで。また出ちゃうから……。
「その術はね、一時的に身体能力を妖怪と同じくらいに引き上げて普段使わない筋肉を酷使することで常人離れした戦いができる術。今は副作用が出てるだけ……寝れば回復するでしょ」
「う゛ぅ……」
何故か親父の札のことを知っているかのような口振りで椿女が説明する。彼女は何を知っているのか、聞きたいことは沢山ある。でも……今は何も考えられないっ!
そのくらい、込み上げる吐き気で目の前がぐるぐるしている。
「全く……あの馬鹿男、この私に子守りをさせるなんて最悪ね」
椿女は、やれやれと言った感じでため息混じりに呟いた。
「あんた、もっと肉食べなさいよ。女子じゃあるまいしダイエットでもしてるの?」
「ぐっ!」
椿女は、身悶えている僕に容赦をすることなく簪で脇腹をつつく。それだけで身体中を筋肉痛が襲い、セットで胃液も込み上げてきたため僕は慌てて口を押さえた。
「ふふ……でも、久しぶりに面白いものが見れてよかった。今後の成長が楽しみよ」
そう言って身を翻した椿女の姿は、先輩たちを順番に見やる。
「じゃ、また明日学校でね。かわいい後輩たち」
そんな意味深な言葉を残した彼女は、椿の花びらと共に消え去った。
まるでコンセントを抜かれてしまったテレビのように、僕の目の前は真っ暗になる。
翌日。
筋肉痛の酷い体は未だに休息を欲していて、授業中ひたすら眠かったということしか覚えていない。体育がなかったのが唯一の救いだ。吐き気は一晩だけで……というか、寝て起きたら体がバキバキに痛んでいて吐き気どころじゃなかった。そのせいで、僕は学校に辿りつくなり薬局で痛み止めを買って来る羽目になったわけだが。
ようやく一日の授業を終えてふらふらと部室に出向こうとした僕だったが、部室の前で鬼原ゴウ先輩、そして鬼原ハク先輩の姿を見て立ち止まる。
「お、体はもうだいじょぶか? 今日の部活は無しだってよ、部長サマは用事があるらしいにゃ」
そう言ったゴウ先輩が鍵を揺らして大きな欠伸をする。先日といい今日といい、部長はよっぽど大事な用があるようだ。
僕たちは職員室に部室の鍵を返してから三人で帰ることになった。先日と違って、今日は小鳥遊先輩の代わりにハク先輩が一緒だ。そのため、僕のテンションもちょっと上がってしまう。
「もう、私抜きで椿女さんに会うなんて二人ともずるい……香取ちゃんも一緒だったなんて」
「すみません、ハク先輩……でも、先輩を危険な目にあわせたくなくて」
あれ、今の僕、ものすごくかっこいいことを言ってないか? 現に、ゴウ先輩が口笛を吹いて冷やかすような仕草をしている。
「私だってオカルト研究部の一員よ?」
ハク先輩はそんなゴウ先輩に気づくことなく、拗ねたように眉を寄せる。うう、怒った顔もかわいい……。
「──なんてね。心配してくれてありがとう。でも……次は私も誘って?」
「はい……」
僕は意思が弱い。というか、ハク先輩限定で。
「しっかしあの熊野郎、せっかく椿女の簪を手に入れたっつーのに逃げやがって……」
「え……逃げた、って……?」
ゴウ先輩の言葉に、僕は目を丸くする。
「んにゃ、午前は居たんだけどさ……でも放課後には居なくなってたんだよ。昼飯の時間はちゃっかりハクに弁当もらってたくせに……」
そうなのか……。って! あの人またハク先輩に飯を作ってもらっていたのか? う、羨ま……許せない。
だが、これで日熊先生に部活を認めさせて顧問になってもらうことができるぞ。そうすればオカルト研究部は正式に部活として活動することができるようになるし、ハク先輩とも話せる機会が増えていい事づくめだ。
「悪い、今日はバイトだから……オレこっち」
駅までやってきたゴウ先輩が不意に立ち止まる。
「バイト? ゴウ先輩、バイトなんかしてたんですか──」
僕が尋ねるより先に、ゴウ先輩に制服を引っ張られた。よろめく僕の耳元にゴウ先輩が顔を寄せる。ハク先輩と同じ、甘い匂いがした。シャンプーだろうか、それとも制汗剤? どちらにしてもハク先輩と同じ匂いにドキドキしてしまう。
「ハクのこと、ちゃんと見とけよ」
「え?」
僕が聞き返すと、ゴウ先輩に腹を小突かれた。待ってください、今日の僕は腹を小突かれたら出ちゃいけないものが出る……。
「あいつ、怖がりのくせに危ないことに首を突っ込みたがる癖があるんだよ……まあ、それは昔からだけど──とにかく注意しとけってこと!」
ゴウ先輩はため息混じりに言うと、すぐに僕の体を解放して電車に乗るよう促した。
「ほら、電車行っちまうぞ」
「は、はい……先輩も気をつけて。バイト、頑張ってください」
僕は急かされるようにして、ハク先輩の乗っている車両へと乗り込んだ。
間一髪のところで扉が閉まり、ゆっくりと電車が動き出す。
「ゴウくんと、何を話してたの?」
座席の隅に座って寛いでいるハク先輩が穏やかに声をかけてくる。
僕はハク先輩の隣に座ろうと思ったけど、何となく恥ずかしくて彼女の向かい側に腰掛けた。
「ハク先輩は危なっかしいから目を離すな、だそうです」
「まあ……ゴウくんって心配性ね」
ハク先輩は目を丸くしてからちょっとだけ唇を尖らせた。
「楓くんも、私の事を危なっかしいって思う?」
「さあ……。でも、僕がゴウ先輩でも同じことを口にすると思います」
ハク先輩の問いかけに対し、曖昧に首を傾げて見せた僕だったが、やがて少しの間を置いてから自分の考えを口にする。
両親を早くに亡くしたというゴウ先輩にとって、ハク先輩はかけがえのない家族なんだろう。
僕にとっての家族は父だが……きっと同じことを思うはずだ。
「家族を危険な目にあわせたくないですから」
かつて最強の陰陽師と言われていた父は、僕が生まれて直ぐに家業から身を引いた。
そのせいで今すごく貧乏を強いられている訳だが、それでも……。
陰陽師を続けることによって、幼い僕が妖怪に命を狙われることを恐れたのだと、魔鬼は言っていた。
父にとって僕は母の残した唯一の子供で、たった一人の家族だ。
家族を危険な目にあわせたくないという気持ち、何となくだが──わかる。
「ごめんなさい……」
ふと、ハク先輩がか細い声で謝罪をした。
「え? いや……僕のほうこそすみません、先輩に生意気なことを言って」
「ううん、楓くんの言う通りよね。気をつけます」
ハク先輩は、しょんぼりと肩を落として黙ってしまった。
僕はハク先輩に説教がしたくて言ったんじゃないのに……。
そうだ、話題を変えよう。いや……けど、話題なんかどこにも……。
「そ、そういえば……明日の生物の授業なんですけど、解剖実習をするんですよ。学校の鯉を使うんですけど──ハク先輩の時はどんな解剖実習でした?」
「……」
完全に滑ったなこれは……。
僕は自分の舌を切り落としたい衝動に駆られながら、さらに話題を変えようと口を開いた。
「ええと、ハク先輩は家庭部に入ってるんですよね? 僕も家で料理をするのでもしよければ部活見学をさせてほしいなー、なんて……」
「……ッ」
ハク先輩の様子がおかしい。
俯きがちになっていたハク先輩は、片手で軽く頭を押さえた。
思わず座席を立つと、痛みをこらえるような顔でハク先輩が微笑む。
「……大丈夫。ごめんね、なんでもないの」
「なんでもないようには見えません。体調が悪いんですか? もしよかったら痛み止めを……」
僕は鞄の中から痛み止めを取り出そうとした。今朝、筋肉痛をごまかすために買ったばかりのものがあるからだ。
「大丈夫……!」
思いのほかハク先輩が大きな声で遮る。
「本当に、大丈夫よ……ありがとう、楓くん……ッ……」
ハク先輩は、そう言いかけて再び頭を押さえて俯いてしまった。この苦しみようは尋常じゃない。
僕は慌てて辺りを見回した。
車両には僕達以外誰も居ない。それなら──。
「急急如律令、六根清浄──」
僕は御札ケースから取り出した一枚の札を握りしめると、ハク先輩の前に進み出てそれを翳す。淡い光を帯びた御札がハク先輩を包んだ。
やがて、ハク先輩は不思議そうに僕を見つめて目を瞬く。
「……痛くない」
「よかった」
僕はホッとして札をケースにしまった。ちなみに僕がこれを自分自身の筋肉痛に使わないのは、使うのがもったいないからだ。御札にはそれぞれ使用回数が決められているし、使えば使うほど効力は落ちてしまう。だから僕自身に使うのは避けていた。
「……私も楓くんみたいな力が使えたらいいのにな」
ハク先輩がぽつりと呟く。
僕はハク先輩の話を聞きながら、遠慮がちに一人分のスペースを開けて隣に腰掛けた。
「私の家、楓くんの家ほどじゃないけど結構歴史があって……ゴウくんの住んでいた家には大きな蔵なんかもあったの。その蔵には変わった本があって……小さい頃、よく読みふけってた」
ハク先輩は独り言のように呟いた。
絡まったイヤホンのコードをしなやかな指で解きながら。
「どんな、話なんですか?」
僕はハク先輩との会話を終わらせたくなくて尋ねる。
「妖怪と女神様の恋の話よ」
ハク先輩はイヤホンから顔を離して優しく笑った。
「昔、人間の世界にはとても強い妖怪が住んでいたの。妖怪はとっても強いのに気が弱くて、人間が大好きな優しい人。まるで楓くんみたいね」
「僕は──」
ハク先輩の指が再びイヤホンのコードを解しにかかる。
「僕は、弱いです。冥鬼に頼ってばかりだし、椿女との戦いだって……」
「楓くんは、もっと自信を持ちなさい?」
ハク先輩はそう言って体を僕に向けると、僕の頭を優しく撫でた。
たったそれだけなのに僕の胸は、キュンと切ない痛みを訴える。女の子に頭を撫でられるなんて、ハク先輩が初めてだったから。
「その妖怪はね、いい心と悪い心を持っていて……自分の中の悪い心を封印した妖怪は異世界からやってきた女神様と結ばれるの」
「女神様、ですか」
よくある恋物語って感じだな。
僕はハク先輩の話を聞きながら胸の高鳴りを抑えていた。下手をしたら口から今日の昼ごはんどころか心臓が出そうだ。
「ふふ……何でそんな本がゴウくんの家にあったのかは分からないけど、私はこのお話が好きなの。小さい頃はよく自分を女神様の生まれ変わりだって信じてたのよ。ゴウくんには呆れられてたけどね」
くすくす、と笑いながらハク先輩が目を細める。その笑顔はまさに女神様だ。さすがにそんなこと言ったら引かれてしまうかな……。
「だから私も……楓くんみたいな力が欲しかったなって」
ハク先輩は、ちょっと声のトーンを落として寂しそうに笑った。
「ゴウくんのご両親ね、火事で亡くなったの。ゴウくんはたまたま私の家に泊まってて……無事だったんだけど、ゴウくんの家は蔵も家も……全部、全部燃えちゃった」
俯きがちになったハク先輩の声が震えている。
「私に超能力とか、楓くんみたいな力があれば事前に危険を察知して火事に気づけたかもしれないって、今でも思うの」
ハク先輩は自らの体を抱きしめるようにして呟いた。
何て、優しい人なんだろう。そんなハク先輩に、僕からかけられる言葉はあるのだろうか。
「せん、ぱい……」
何か、言わなきゃ。僕は拳を作って震える声を上げる。
その時、ハク先輩が小さなため息をついていつもの穏やかな笑顔を見せた。
「湿っぽいお話してごめんなさい。楽しいお話にしましょ?」
「……は、い」
何か言わなければと思ったけど適切な言葉が見つからない。そんな僕の迷いを感じ取ったのか、ハク先輩は僕に心配をかけまいと優しく微笑んだ。
「そういえばね、楓くん」
悲しい雰囲気を無理やり明るくするように、ハク先輩が話題を変える。
「今夜、テレビで陰陽師の特番があるらしくて……カリスマモデルのクロウが出るんだって。レンちゃんがね、部活を二日連続で休みにした代わりに、今日はこれを見ることが部活動だから! 全員見なさい! 見ないと死刑よ! ……って言ってた」
ハク先輩は部長の強い口調を真似て僕に人差し指を突きつける。後半、ちょっと笑っていたから死刑とは言ってないんだろうけど……あの部長なら本当に言いそうだな……。
「く、クロウ……ですか?」
「知らない? アーティスト活動をしたり自分がプロデュースしたお洋服のお店なんかも持ってて、日本一有名なカリスマモデルなのよ」
それに、とハク先輩が人差し指を立てる。
「クロウはね、東妖市出身の陰陽師なの」
その言葉に、緩みきっていた僕の体が少しだけ強ばった。




