【ためらいの水無月渡るコメーディエ】4
王牙の運ばれた部屋は、まるで地獄のような場所だった。カーペットは血の色をしていて、天井まで黒い染みを作っている。悲鳴と怒号が響き、小さな子供を傷つける親の姿があった。
泣き叫びながら懇願する子供に向かって、一心不乱に包丁で刺し続ける父親の姿。
「宮様のため、信仰を示す血潮が我々を清める……。苦しみこそが、本当の喜びッ!」
まるで呪文を唱えるように父親が叫ぶ。何度か包丁を振り下ろすと、やがて子供は息絶えたのか、それとも父親に救われることがないと知って絶望したのか、何の反応も示さなくなった。
「……」
傍らでは男なのか女なのか判別することさえもおぞましい遺体が横たわっている。
犠牲は救いの始まり。苦しみこそが本当の幸福。我らの心は喜びに満ち溢れ、我らの悦びの声が宮様の復活を讃える歌となる。そんな呪いのような言葉が飛び交っていた。
(なぜ……こんなことが起きている……)
室内で行われる数々の拷問を見せつけられ、一体どれだけの時を迎えたのか。いっそ同じように狂って、気を失いたくなる。
オオカミ祭りで村人たちに殴り殺され、最愛の人を失った狗神鏡也の苦しみはきっとこんなものではない。あんな悲劇を起こさないために、王牙は強い男にならなくてはいけないのだ。
部屋の扉が開かれてスーツ姿の男が拷問部屋へと入ってきた。狐のお面を被ったその男は、王牙を殴ったスーツの人物だ。男はわざとらしく肩を竦めた。
「何ですか、人殺しでも見たような顔をして。失敬じゃないですか」
「……ッ」
低く唸り声を上げる王牙を見て、男は心底おかしいものを目にしたかのように笑い声を上げた。あの時の信者だ。王牙を背後から襲った信者。
「ははは、まるで犬みたいですねぇ。そうそう、あなたは犬のお嫁さんのところに婿養子に行くんでしたっけ?」
王牙の表情が怪訝なものに変わる。男は、おもむろに仮面を取って素顔を見せた。その顔には見覚えがある。自由共生党の葛西菖蒲だ。
葛西は、血の滲んだ猿轡を乱暴に外す。王牙は激しくむせながら葛西を睨みつけた。
「狐輪教と、政界が絡んでいるという噂は……本当だったようだなッ! それもこんなおぞましいことを……」
「御花畑先生からの情報ですか? まあ──その御花畑先生も私に手出しが出来なくなりました。君もね……」
そう言いながら、葛西がライターで煙草に火をつける。まるで世間話の延長のように軽い口振りで。
「父に何をしたッ!」
王牙が掴みかかろうとするが、黒い腕をした影が地面から伸びてきて羽交い締めにされてしまう。
「危ない危ない。ちょっと大人しくしてもらってるだけじゃないですか。君を人質に使って先生を揺すれば、警察は狐輪教に手出しが出来なくなるでしょう? ん〜、あるいは……」
葛西が煙草を王牙に近づけながら言った。しかし、王牙は体を震わせながらも強く唇を噛んで葛西を睨みつけている。葛西はニタリと笑って王牙の胸ぐらを掴んだ。
「いっそキズモノにしてしまうのも良いかもしれませんねぇ?」
煙草の煙を吹き付けながら葛西が笑う。王牙の背筋に冷たいものが伝った。けれど、ここで怯えて取り乱すのは相手を喜ばせることに他ならない。王牙は無理やり唇の端を吊り上げた。
「想定内。いかにも悪党が考えそうなことだ。御花畑の男子たるもの、決して悪に屈しない」
強がりにも聞こえるその言葉を聞いて葛西の表情が歪む。王牙の体は、狐輪教の信徒たちによって別室へと引きずられていった。
そこは血にまみれた部屋とはまた別の部屋。完全な個室になっており、部屋には窓も時計もない。ただ簡素なベッドがあるのみ。
「狐輪教の邪魔をする者にはね、裁きが下るんですよ」
葛西がニヤ、と笑って言った。王牙は、ずっと縛り上げられているせいで痺れてしまった腕を必死に捩る。
「教祖は、何を企んでいる? 答え──」
呻くような声で王牙が問いかける。葛西は何も答えずに王牙の口に再び猿轡を噛ませた。
強力な力を持つ妖怪よりも、悪巧みを考えるどうぶつよりも、一番怖いのは生きている人間だ。
「声を出させないように。悪魔とやらを呼ばれては厄介ですからね」
銃は取り上げられ、今の王牙に抵抗する手段はない。遠くから聞こえる悲鳴と肉を裂く音だけが、王牙の耳に届いている。今の王牙にはただ、父の無事を願うことしか出来なかった。




