【ためらいの水無月渡るコメーディエ】2
彼の名前は御花畑王牙。高校を卒業すればすぐに婿入りが決まっているとは言え毎日勉学に励み、部活すら一度も欠席したことはない優等生だ。それもすべて、御花畑の名に恥じない生き方をするため。
彼の召使いであるカトシキは、ドイツに古くから存在する山羊の角を持つ悪魔である。王牙の高祖父がドイツに住んでいた頃、王家エーデルシュタインから譲り受けたものだ。東洋の妖怪にはない残虐で冷酷な性質を持った存在。
しかし現代に適応するため、悪魔も日々変わりつつある。大抵の悪魔は自由奔放、快楽を優先し勝手気ままに契約を放棄して闇に堕ちる者が多いが、カトシキは変わり者だった。
「王牙様、本日は英語の自習をするはずですが」
「勉強は寝る前にやる。それよりも、狐輪教について調べるのが先だろう」
狐輪教の調査──それは父から任された大事な仕事だ。彼が御花畑の人間でいられるのもあと僅か。それまでに、少しでも父の役に立ちたいと思っている。
「一夜漬けは頭に入らないかと」
「この御花畑王牙に不可能はな……」
王牙は、ふと扉の向こうに人の気配がしてドアを開ける。しかし部屋の前にはおろか、廊下にも誰も居ない。
「どうかされましたか、王牙様」
「いや……悪戯好きな中等部の後輩だろう。早く来い」
「牛尾様にも困ったものですねぇ」
やれやれと肩を竦めたカトシキが、しっかりと部屋の扉を施錠する。既に王牙は先に歩き出していた。
御花畑王牙の通う学校は全寮制の一貫校。安否確認の観点から門限は決められているが、連絡さえ入れておけば割とゆるいもので、罰則もない。
「これも我が御花畑王牙の日頃の行いの成果──聞いているのか、カトシキ!」
学校を離れ、電車で中華街へ向かった王牙たちが捜査を始めて間もなくのこと。
いつの間にか傍から離れて甘栗売りの勧誘に遭っていたカトシキに気づいた王牙は、すぐに彼の首根っこを掴んだ。
「歩きながらの捜査はお腹が空きます。王牙様もどうぞ、一口」
「真面目に聞いてなかっただろう……」
差し出された甘栗を引ったくって口に放り込んだ王牙は、不機嫌そうに眼鏡のブリッジに指を当てる。
県内でも人の通りが激しいこの場所ですら、有益な情報は得られない。狐輪教の名前を知らない者がほとんどなのだ。このまま何も成果があげられないようでは、御花畑の名に傷がつく──。
「狐輪教の集会は全国で開かれていると聞いた。集会に忍び込み、悪事の証拠を手に入れることができれば父上も堂々と奴らを裁けるというもの。安心しろ、この御花畑王牙に不可能はない!」
この台詞を一息で叫ぶ王牙に、よく口が回るものだと密かに感心しながら悪魔が沈黙する。
「しかしこのように混雑していては狐輪教の信者を探す方が難しいのでは?」
「む……」
言葉に詰まった王牙を見てカトシキは小さなため息をついた。
「今日の収穫は甘栗だけですか」
「うるさい」
以上、これが彼らの日課になっている。
昼間は学生としての本分を果たし、夕方は情報収集。そして、週末にはたっぷり時間をとっての捜査だ。
「カトシキ、今日も捜査に行くぞ」
王牙の呼び掛けに返事は無い。
壁にかけられたカレンダーは、六月十五日の日付まで黒いペンでバツ印がつけられていた。今日は六月十六日──満月の日だ。月の魔力で、人間も悪魔もほんの少し残酷になる日。あの悪魔はどこぞで餌でも漁っているのだろうか、と王牙は思った。
「勝手な奴だ──御花畑の使用人としての自覚はあるのか?」
王牙はそう言ってノートの端に『捜査に行ってくる』と書き記して、再び中華街へと向かった。執拗に話しかけてくる甘栗売りを無視してどんどん人混みをかき分けていく。
名門校の学生服を着ている少年を見て不審がる人間は居ない。既にネットでは狐輪教の勢いが水面下で広まっており、続々と信者を増やしているのだという。その中でもSNSの投稿に『#狐輪教の人と繋がりたい』などという馬鹿げたハッシュタグがあった。無謀な方法ではあるが、SNSで情報を集めてアジトを突き止めればいい。
案の定、狐輪教に入ったばかりだという女からダイレクトメッセージが届いている。正直半信半疑ではあるが、会ってみればわかると王牙は思った。
「彦星さん?」
不意に声をかけてきた女性が居た。少々派手な外見だが、人の良さそうな女性。年齢は恐らく王牙の母親よりも少し若いくらいだろうか。
彦星とは、SNSでの王牙のハンドルネーム。婚約者の織姫に因んでつけた名前であることはカトシキにすら言っていない。
「私よ私。くるる」
女性は優しく微笑んで自らのハンドルネームを名乗った。
「その制服、五十日大でしょう? 五十日大学附属高等学校。知ってるわ、名門校だって有名だもの」
くるるは一方的に喋りかけてくる。
恐らく、彼女は狐輪教にとって信者を集めるための役割。狐輪教に興味がある人々にSNSで声をかけて入信させる手口だろう。
王牙は静かに眼鏡のブリッジを押さえて笑みのこぼれる口角を隠すと、やがて渾身の笑顔で言った。
「ありがとうございます。今日はよろしくお願いします、くるるさん!」
自分の顔は芸能人やモデルほどではないが、中の上──それほど悪くはないはずだ。父も学生時代はよくモテていたと言うし、つまり自分も美しいのだと自己分析している。何より婚約者の織姫が愛した顔。
対人関係の多くは、顔面が美しいほうが有利だ。女はかわいければ許される。男もかっこよければ(多少怪しくても)許されるはずである。
(完璧すぎる自分が怖い──)
この場にカトシキが居れば『見事なナルシストですね』と突っ込んできそうなものだが、今は傍に口うるさい悪魔が居ない。
くるるは、王牙の手に毛玉のキーホルダーを握らせた。
「これは?」
毛玉をゆらして王牙が尋ねる。
「狐輪教の信者はみんな持ってるわ。これが私たち家族の証。欲しかったんでしょ?」
まるで王牙の思考を見透かしていたかのようにくるるが微笑む。王牙は注意深く、くるるの表情から思考を読み取ろうとした。怪しい人間ならば匂いでわかる。どうぶつのように優れた嗅覚はなくても、王牙には優れた観察眼があるからだ。
しかし、すぐにくるるは背を向けて何かを探すように辺りをきょろきょろと見回した。
「お腹すかない? もし良かったら少し早めのディナーでもご馳走させて。集会場所も教えられるけど」
当然、断る理由など見つからない。王牙はこの時、完全に慢心していた。




