【ためらいの水無月渡るコメーディエ】1
「お久しぶりです、先生」
葛西菖蒲はそう言って、厳格そうな男の手を握った。警察庁長官であるこの男と葛西は、学生時代の先輩後輩の関係にあたる。
「葛西くんも元気そうでなによりだ。いや……もう葛西先生と呼ぶべきか」
「あははは、何を仰います! 御花畑先生に比べたらまだまだですよ。どうぞおかけください」
葛西は機嫌良さそうに大きな声で笑うと黒レザーのソファに腰掛けた。タイトスカートから白く長い足を覗かせた歳若い秘書が人数分の緑茶と和菓子を運んでくる。その和菓子を見て、男が目を輝かせた。
「先生、お好きでしょ? 橘〜……」
「橘総本家ですよ」
秘書が鼻にかかった声でそっけなく告げると、葛西は笑いながら『そうそう』と答えた。
「橘さんの菓子は昔から好きなんだ。本当にいただいて良いのか?」
「ええもちろん。私は和菓子だめなんですよねぇ。あの甘さがわざとらしいんです。和菓子アレルギーなのかもしれな──お、来た来た。私が好きなのはこっちですこっち」
だらだらと和菓子への不満を垂れ流していた葛西の前に、生クリームたっぷりの高級洋菓子店のケーキが置かれる。それを見た葛西は早速フォークで一口食べながら『遠慮なさらず召し上がってください』と男に笑いかけた。
「私は、和菓子も嫌いではないよ」
そう言って静かに手を合わせた男は眼鏡のブリッジをそっと押さえてから、おしぼりで手指を拭う。
「ご子息はもう婿養子へ?」
「まだ高三だよ、葛西くん。息子は一人の男として、家族を守る大事な役目を担ってる。私は息子が誇りだ」
「へェ……」
葛西はどうでも良さそうに愛想笑いをして、音を立ててコーヒーをすする。
「ところで、今日はどうされたんです? 御花畑先生みたいな多忙なお方がわざわざこんなところにお越しになるなんて」
湯のみに口をつけた男は、じっと葛西を見つめた。静かに湯呑みを下ろして小さく咳払いをする。
「近頃、世間では危険思想の新興宗教が広まっている。君も噂を耳にしたことがあるのでは?」
「さあて……? 宗教なんてそこらじゅうにありますしねぇ」
葛西はケーキをフォークで細かく切り分けながら笑った。高級洋菓子店のケーキが見るも無惨な姿になっていく様子を見て秘書が顔をしかめる。
しかし、男は真剣な眼差しで葛西の目を見つめたまま話を続けた。
その宗教に関わった人間が次々に行方不明になっていること。定期的に教祖が信者を集めて各地で集会を開いているということも。
「最近はリモートでも集会が出来るらしいがな」
「へえ〜、それはすごい。国会答弁もリモートになりませんかねぇ? 今はデジタル社会ですよ?」
「無理だと思います〜。年寄りはパソコン使えないもん」
葛西は笑って秘書に振り返りながらケーキの上のイチゴを口に頬張る。くちゃくちゃと、見せつけるように噛み砕かれたイチゴが口の間からチラついた。秘書は嫌そうな顔を隠そうともせずに葛西の口を白いハンカチで拭う。
男は顔色を変えずに続けた。
「その教祖には、監禁および殺人教唆の疑いがかかっている」
「具体的にはどのような?」
「信者たちを洗脳し、殺し合わせている可能性がある」
「ははッ、可能性がある? 証拠はないんですか?」
「今、息子が調べているところだ」
真面目に男が話す物だから、葛西は今度こそ声を上げて笑った。
「子供のごっこ遊びじゃないんですよぉ?」
「私の息子はごっこ遊びなどしない」
厳格な雰囲気を纏ってはいるが、人の良さそうな顔立ちをした男が少し怒気を含んだ声で言う。
「いい加減、知らないフリをするのは止めにしないか、葛西くん。君の自由共生党が彼らを支持していることも調べはついている。その宗教の名前は──」
男がその言葉を口にしようとした時、妙な息苦しさで喉を押さえた。呂律が回らない。体を起こそうとするが、全身に強い痺れを感じてその場に崩れ落ちてしまう。
「そこまで調べたのに残念でしたねぇ」
くちゃくちゃとケーキを食べながら、葛西が男を見下ろした。カーペットの上で強く握りしめられた男の手を葛西が踏みつける。端正な顔立ちが歪んだ。
「か、葛西……」
次第に男の呼吸が浅くなっていく。必死に耐えようとするが、意識はどんどん遠ざかるばかりだった。
「その自慢の息子も、じきにあなたと同じ運命を辿りますよ──御花畑帝人先生」
葛西は男が意識を失ったのを確認すると、ニタリと笑って唇についたクリームを秘書に見せつける。秘書がハンカチで拭おうとすると、その腕が強い力で掴まれた。腰の横で固定し、腕を上げさせないようにしながら葛西が秘書に顔を近づける。
「大学生はお金がたくさん必要でしょう? 化粧品にブランド物のバッグや服、友達とのランチ代、たくさん出費がありますからねぇ。これも社会勉強だと思って、ほら。何のために学校で勉強してるんですか? そのかわいらしい舌で綺麗にしなさい」
信じられないものを見るような目で葛西を見つめた歳若い秘書は、嫌そうに顔を歪めてその唇に舌を這わせながらクリームを舐めとる。髭の周りについたクリームも、鼻の頭にわざとつけられたものまで、舌を震わせてすくいとっていった。生理的な嫌悪から、うぇ、と小さな声が漏れる。
葛西はわざと舌を尖らせて嫌がる秘書の舌に絡ませながら、片手で形のいいヒップを撫で回していった。
「御花畑先生はどこか適当なマンションで監禁してください」
「烏津鹿にマンションがありますね、愛人名義の」
「ああ、そう。じゃあそこで。私は忙しいですからね、部屋には誰も入れないように言ってくださいよ」
葛西に命じられ、傍に控えていた黒服の男たちが意識を失った男の体を運んでいく。葛西は秘書の体をソファに倒してのしかかりながらネクタイをゆるめた。秘書が上体を捻りながら小刻みにかぶりを振る。しかし、秘書の腹の上には葛西の大きな体がのしかかっており、逃げることすらかなわない。
その時だった。ずっと壁際にもたれながらスマホゲームをしていた女性が、おもむろに部屋を出ていこうとする。
「茶番ね。息子の方は手筈通りに始末すればいいんでしょ?」
「ふふふ……お願いしますよ。そうだ、あなたも一緒にどうです? 陰陽師って結構ハードな仕事でしょう? マッサージしますよ。オイルマッサージ。よく動画で見ていてねぇ──得意なんです、ああいうの」
葛西は振り返りながら、小ぶりな秘書の胸をスーツの上から両手で鷲づかんだ。口の周りをクリームとよだれまみれにされた秘書は、これから自分が失う尊厳を想像しているのか顔を真っ赤に歪めてすすり泣いていた。その口が『助けて』と女性に救いを求めている。
彼女もきっと、自分と同じように金のために葛西に雇われているのは分かっていた。自分と同じ女性なのだから、この状況を見て見ぬふりなどできないはず。秘書はそう思っていた。
やがて、ピンクに彩られた女性の口元がゆるく弧を描く。
「報酬を今の五十倍にしてくださるならいくらでもお付き合いしますよ、葛西先生」
女性は勝気に笑って、悲鳴に近い泣き声が聞こえる葛西菖蒲の部屋を冷たく閉ざすのだった。




