【常夜華、待って寝かせて彼岸まで】5
「ケケッ、不法侵入〜? やっほ〜」
月明かりに輝く白い髪が幻想的に煌めいている。どこか神秘的な雰囲気を纏っているのに、その口から出た楽しげな声は下品な笑い声だった。ゆらゆらと白いしっぽを揺らした少年は、無造作に蜘蛛の髪を片手で掴む。
「ねぇ──本当にやるのぉ?」
誰に聞いているのか、少年が間延びした声で問いかける。すると、闇夜からゆっくり足音が聞こえた。その姿は海斗にも見覚えがある人物。
「楓クン! ないすたいみんぐ! デス!」
レガーレが声を上げる。それはすみれ色の着物を羽織った長い黒髪の上級生、鬼道楓だった。濡れ羽色の髪が妖しく煌めいている。
「当たり前だ。協力してくれるって約束だろ」
「あの姿になるのはヤダよ」
「それを倒してくれるだけでいい。頼む──猿神」
楓はニコリともせず、淡々に白髪の少年に語りかける。猿神と呼ばれた少年は、ニィッと厭らしく笑って血のように赤い瞳を細めた。
「じゃあ、ボクのやり方に文句つけないでよね。最弱陰陽師サン」
猿神は挑発的に笑うと、蜘蛛を見下ろして闇夜に赤い瞳を光らせる。その瞳に見つめられた瞬間、今まで体の下で蠢いていた蜘蛛が動かなくなる。
「ケケ。動かない的って最高だネ」
猿神はそう言うと、片手銃で躊躇いもなく蜘蛛の足を貫いた。蜘蛛が甲高い悲鳴を上げる。まるで無垢な子供が虫をいたぶり殺すように、猿神は蜘蛛の腹や足を撃ち抜き、苦しみを長引かせていく。
そのあまりの酷さに海斗は顔を覆ってしまった。
「痛い? 許してあげようかぁ?」
猿神の問いかけに、蜘蛛が目だけで殺さないでくれと訴える。猿神は舌なめずりをして笑った。
「だーめッ」
何度も蜘蛛の頭を撃ち抜いた猿神は、満足そうに頭部を引きちぎる。返り血で服が変色するが、猿神は大して気にも留めていない。
「ヒッ……」
常人とは思えないその冷酷さに怯えた海斗が、宿儺にしがみついて体を縮こませた。それを見た猿神は、わざと海斗の目の前にその頭部を転がす。
「わあああん!」
「ケケッ」
その怯えた反応を見た猿神が楽しげに笑う。『猿神』と楓がたしなめると、猿神は舌を出して海斗から目をそらした。そして目の前にある蔵の錠前を銃で破壊し、扉を難なく押し開ける。
猿神が蔵の隅にある卵を見つけたのはすぐだった。それは恐らく蜘蛛の卵だろう。それは今にも生まれそうなほどに脈打ち、不気味に蠢いている。海斗は思わず息を飲んだ。
「ヒッ……う、動いてるッ……」
「危険だから下がっていてくれ。八雲さんのくれた札の詠唱は、確か──……」
楓はそう言って卵の四方に札を置いて結界を貼ると、怯える海斗の前で詠唱した。
「天上に眠る霞と邪気の鎖よ。常夜の炎により灼け堕ちろ」
ぼんやりと札が赤く輝く。薄暗い蔵の中で、楓の赤い瞳が瞬いた。
「急急如律令── 火滅神呪」
その言葉と共に蔵の中に眩い光が灯り、勢いよく卵嚢ごと炎に包まれる。卵だったものは、灰となって何事もなかったかのように、ゆっくりと風に舞い上がっていく。その一部始終を見ていた海斗は、ただただその神秘的な力に圧倒されていた。
「す……すご、い……」
言葉を無くしている海斗の目の前で、月の光に照らされた濡れ羽色の長い髪が静かに春の夜風で靡いている。昼間のちょっと頼りない上級生の顔とは一変した、夜の顔。
「さすが楓クン! 連絡しておいて良かったデス!」
「いや……日曜日の夜に電車で県を跨ぐことになるとは思いませんでしたけど」
レガーレに抱きつかれながら楓が何とも言えない顔をしている。蔵から出てきた猿神は、海斗と目が合うなりニヤーッと下品に笑った。
「美味しそうな匂いだねぇ? 食べちゃおうかなぁ……」
「猿神、怖がらせるな」
楓に叱責された猿神は、反省すらしていないのか素知らぬ顔で口笛を吹いている。
「あーあ、疲れたッ! 楓サン、ご褒美の件……忘れてないよねぇ?」
「……ああ」
楓は仏頂面で返事をすると、ポケットの茶封筒ごとレガーレに渡そうとした。
「すみません、以前いただいたこれで扉の修理代を……」
「要らない要らない! 楓クンには感謝イッパイしてるデス! そうだよナ、タカミ!」
高見は深く頷きを返す。寡黙すぎる父に変わって礼を言ったのは寝巻き姿の宿儺だった。
「楓兄さん……家を守ってくれて、ありがとうございました」
深々と頭を下げる宿儺を見て、楓は少し驚いたように目を見張る。けれど、やがて宿儺を見上げるようにして微笑んだ。
「全然気づかなかった。君が『くーちゃん』だったなんて。でも、髪を下ろしてると小さい時の面影があるな」
「もう、くーちゃんって年じゃないですよ。つか、言い出すタイミング、分からなくて……すみません」
宿儺が照れくさそうに髪をかきあげながら視線を逸らす。しかしすぐに姿勢を正して、命の恩人へと礼を述べた。
「改めて、粟島宿儺です。両親を助けてくれて、家を守ってくれて……ありがとうございました」
礼儀正しく頭を下げる宿儺の後ろ姿を見つめながら、海斗は小さな安堵のため息をつく。
どうやら楓と宿儺の二人は旧知の仲だったようだが、今は驚きよりも安堵のほうが強い。これで母親も宿儺も守ることができた。もう怖い思いをする必要はないのだ。
全身で胸を撫で下ろしている海斗に、宿儺が声をかけてくる。
「海斗も、ありがとな。お前が教えてくれなかったら、父さんも母さんも、蔵の酒たちもやられてた。お前のおかげだ」
「え、えっと……僕は……へへ」
まっすぐに礼を言われたのが嬉しくて、海斗が照れくさそうに笑う。
「でも、何で知ってたんだ? オレんちに来るのは初めてなのに、蜘蛛のこと知ってたし……それに家の間取りまで」
「そ、それ、は……」
海斗がぐっと唇を噛んだのを見て、宿儺が目をそらす。また気を遣うつもりだ、と海斗は思った。実際には正夢になっていないから『また』ではないのだが、これ以上後ろめたい思いをしながら宿儺と友人関係を続けている自分が嫌だった。
「ぼ、僕──あのね、本当は……」
「サア! 今日はごちそうデス! 汐里も隼人も海斗も、今日はくーちゃんに楓クンも居るデス! 腕によりをかけて料理を作るゾ!」
海斗の声に被るようにして、レガーレがはしゃいだ声を上げる。レガーレは高見の背中に抱きつくと、イチャイチャしながら部屋へ戻っていった。
「オレ達も行こうぜ? 母さんの料理、スゲー美味いんだ。きっと海斗も気に入るからさ」
「わ、わッ……」
宿儺はヘアピンで前髪を上げると、母親の真似をするように海斗の背中を押して部屋へと戻っていく。
その場に残った楓と猿神は、ある一人の後ろ姿を見つめていた。
「猿神、彼のこと……どう思う?」
「ウン、とっても美味しそう……お菓子みたいに甘い甘い心臓じゃないかなぁ……」
猿神が好物を前にしたような顔で舌なめずりをする。その目は、じっと橘海斗を見つめていた。
「それよりさぁ、分かってる〜? ボクが楓サンの仕事を手伝ったら、ご褒美にハクちゃんとデー……」
猿神がそれを言い終えるや否や、突然空から稲光が聞こえて粟島家の玄関にものすごい音を立てて落ちた。
驚いた楓が猿神に返事もせずに慌てて玄関に向かうと、そこには既に粟島家と橘家の面々も集まっている。
「な、なになになに? 隼人さん、怖ーいっ」
「だっ大丈夫だよ、しーちゃんは僕が守るから!」
ぎゅうぎゅうと抱き合っている橘家に対して、粟島夫婦は意外と冷静に、黙って稲光が落ちた場所を見つめていた。
そこには、全身ずぶ濡れになった着物姿の子供がへたりこんでいる。少年とも少女ともつかない顔立ちの中性的な子供だ。
「あたた……深海ってのは実に面妖──けど、そうでなくちゃなァ!」
そう言いながら威勢よく体を起こした子供は、きょろきょろと辺りを見回す。やがてその目が海斗に留まった。
「ここが常夜の国かァ? 王はどこだよ」
不躾に尋ねられるが、海斗はビックリして何も答えられない。楓も同様に閉口していたが、それは突然現れた子供に驚いたからではない。子供の顔は──。
「トーマ! お前、何でここに!? 我についてきたのか?」
海藻にまみれ、磯の匂いがする子供が驚いた顔で尋ねてくる。楓は思わず後ずさった。
「と、トーマって……」
「我には分かる。その赤い瞳に美しい黒い髪。間違えるはずがねェ。オマエの名前は──」
子供はそう言って、楓の両肩をびちゃびちゃの手でグッと掴む。服が水でじんわりと濡れた。
「最強の陰陽師にして鬼の子、鬼道澄真──へぷしッ!」
子供が屈託のない雰囲気を纏ってその名を告げた瞬間、盛大なくしゃみが響いた。どうやら体がすっかり冷えてしまっているようだ。
「うう、さみィ……」
「全身ずぶ濡れだからデス! 風呂入レ! 風呂!」
登場早々、楓にくしゃみを浴びせた子供は寒そうに縮こまってレガーレの叱責を受ける。子供の首根っこを掴んだレガーレは、その青い瞳を僅かに見張ると唇を尖らせて汐里へ振り返った。
「汐里ぃ、この子を風呂入れるの手伝ってクレ」
「え、私? 旦那さんじゃなくていいの?」
きょとんと目を丸くしていた汐里は、レガーレに案内されるがままに風呂へと向かった。
「楓兄さん、知り合いっすか?」
「い、いや……」
硬直している楓を心配して宿儺が声をかけてくる。傍らで、猿神も思うところがあるのかそっぽを向いたまま口笛を吹いていた。
常識的に考えて、空から稲光と共に子供が現れたら誰もが驚く。けれど楓が驚いている理由は別にあった。
子供のあの顔は、彼がいつも見慣れた常夜の鬼王、冥鬼にそっくりだったからだ。




