【桃源の春爛漫と百千鳥】2
「今日、何かあったの?」
海斗は少し戸惑ったようにテーブルを見た。目の前には普段食べないような出前の寿司が並んでいる。花瓶には満開のピンクの薔薇まで飾ってあり、海斗の入学祝いにしては少々遅い。
「パパがね、お寿司食べたいって言うから買ってきちゃったの♡ ねっ、パパ!」
急に話を振られたせいで、まぐろを醤油に付けていた彦右衛門がわざとらしい咳払いをした。
「うッ……ま、まあ、そうだ! 海斗、寿司は嫌いだったか?」
「……嫌いじゃないけど」
「ならどんどん食べなさい。寿司は久しぶりだろ? あッ、わさびは抜いた方がいいな。サチエ、取ってあげなさい」
彦右衛門はそう言っていそいそと海斗の寿司を選び始める。ごまかすのが下手な夫を見て、海斗の祖母であるサチエがため息をついた。しかしその顔はどこか嬉しそうにも見える。
「ちょっと……はしゃぎすぎじゃないの、あなた──汐里、魚介類食べ過ぎたらダメだからね」
「はーいママ♡」
妙に違和感のある家族の振る舞いに、海斗はしばらく不安そうにしていたが、やがてまぐろを醤油につけて口に頬張った。肉厚の赤みを噛み締め、醤油が染み込んでもなお味わい深い旨みを堪能する。
「お母さん、まぐろ要らないの? 好きでしょ」
海斗が問いかけると、汐里は少し喉を鳴らす様子を見せたがすぐに玉子を頬張った。
「いいの。お母さん、今日は玉子が食べたい気分なんだから♡」
「ふーん……?」
滅多に食べられない極上の寿司を日曜の夜に腹いっぱい味わった海斗は、風呂を済ませて自室へ戻るために階段をのぼる。
(ふわふわする……)
それは久しぶりにご馳走を食べた幸福感か、それとも風呂上がりで体が火照っているだけなのかは分からない。恐らく今日は部屋に入った途端死んだように眠れるだろう。
そんなことを考えながらぼんやりと部屋の扉を開けた時だった。タイミングよく、RAIINの着信音が鳴る。相手は、RAIINを交換したばかりの宿儺だ。青い空がメインで、海をバックにバイクを停めている宿儺らしいアイコン。
『おはぎ、作ってみたんだけど』
そのメッセージと共に、大きな握り飯ほどのおはぎが皿に乗せられた画像が送られてくる。海斗が『夜食?』と打ち込むと、すぐにビックリしたようなスタンプの後に『明日、お前と食べようと思って練習してた』と返ってきたものだから、海斗はすぐに『ありがとう』と書かれたスタンプだけを送る。
高校に上がって初めて出来た友人の存在は、海斗の心を和ませていた。
「オカルト研究部……良いなぁ」
微睡みながら海斗が呟く。家庭部に入ったばかりで、部活を変えるのは抵抗がある。顧問も先輩も良い人たちばかりだし、何より料理を作るのは好きだ。けれど、彼には大きな問題がある。家庭部のメンバーは、海斗ともう一人の上級生を除いて全員女子。顧問が気をつかってくれるのが申し訳なくて、最近は部活に顔を出せていない。
このままでは、自分を変えることはできない。それは海斗が一番分かっていることだ。
「う……」
目の前がぐるぐると回る。スマホの画面が揺れて、海斗の瞼がくっつきそうになったその時。
ぴこん。
不意にRAIINが鳴った。
『お前の母さんが今ウチに来てるんだけどさ』
発信者は宿儺だった。さっき夕飯を食べ終わったばかりなのに、母が外出するなんてありえない。怪訝そうにスマホを見つめていた海斗は、頭がくらくらするような錯覚に包まれる。それは白昼夢のような感覚に似ていた。
「あう……」
気がつくと、海斗はベッドの中でスマホを握りしめたままぐっすり眠っていた。時刻は朝の七時五分前。スマホを見ると、宿儺からの不在着信が何件も入っている。
『ごめん、昨日寝ちゃってて。何かあったの?』
そう送っても宿儺からの既読は無い。彼は弁当も自分で作っているし、朝は忙しいのだろう。海斗も早く起きなければいけない。
それにしても、月曜日の朝はどうしてこうも眠いのだろう。
「あと、五分だけ……」
微睡みながら枕に顔を埋めようとした時、祖母の悲鳴と共に遅れて彦右衛門が海斗の部屋にやってきた。
「か、海斗……起きてるか」
「どうしたの、じいちゃん……」
「汐里が……お母さんがな……」
彦右衛門が嗚咽しながら腕で顔を覆う。その顔面蒼白だ。その震える手が海斗の部屋にあるテレビのリモコンを付けた。
『一体ここで何が行われていたというのでしょうか? 近隣住民の人たちも怯えています!』
物々しい雰囲気で、真新しい一軒家に警察やマスコミが殺到している。その右上のテロップには『閑静な住宅街で大量殺人』の文字。
「な、に……?」
海斗が引きつった顔で問いかける。彦右衛門は声を出すことすら出来ずに嗚咽していた。死亡者のリストがアナウンサーの説明と共に流れてくる。
『粟島レガーレさん、橘汐里さん……』
頭がくらくらしていた。何が起きているのか理解が出来なくて、海斗の意識はぷつりと途切れた。
ぴこん。
タイミングよく、RAIINの着信音が鳴って覚醒する。相手はRAIINを交換したばかりの宿儺だ、青い空がメインで、海をバックにバイクを停めている宿儺らしいアイコン。
『おはぎ、作ってみたんだけど』
この会話を、海斗は知っている。背中に冷や汗が伝った。浅い呼吸を繰り返しながら『夜食?』と打ち込む海斗に返ってきたのは、ビックリしたようなスタンプ。そして『明日、お前と食べようと思って練習してた』というどこかで見た言葉だった。




