【桃源の春爛漫と百千鳥】1
それは、四月十七日のこと。
医師から告げられた祝福の言葉を聞いて、汐里は花が咲いたような笑顔を浮かべる。子供が高校生になったとはいえ、二人目が欲しいと願い続けていたのは彼女だけではない。診察室から出た途端、すぐにスマホで最愛の夫に連絡を入れる。
『本当に? 女の子かな?』
「まだ分からないけど、予定日は来年の二月だって! 嬉しい〜♡」
汐里は年甲斐もなくはしゃいだ声を上げて看護師に注意をされてしまった。慌てて声のトーンを落としながらも弾んだ声色で夫に話しかける。
「あのねあのねっ、あの子にはまだ内緒だからね」
『分かってるよ。こういうのはサプライズが大事だからね』
夫の返事に汐里はうふふと笑って電話を切った。
ああ、今日は何ていい日なんだろう! これもきっと、狐輪教のおかげに違いない。汐里はそんなことを考えながらRAIINのアプリを立ち上げた。
『二人目、出来ちゃいましたぁ♡』
汐里の発信からすぐにたくさんのスタンプが送られてくる。どれも汐里を祝福するあたたかなものばかりだった。
「えへへ……」
数々の祝福のメッセージを嬉しそうに見つめた汐里は『ありがと♡』と幸せいっぱいの返信を打ち込むのだった。
出会いのきっかけはSNSだ。子育てについて悩んでいる汐里に声をかけてきたのが、市内に住むというハンドルネーム『くるる』──本名は阿來。会ってみると、少し化粧の濃い派手な身なりの女性で汐里とは正反対だったが、どこか古風で落ち着いている不思議な人物だった。
阿來もまた子育てに悩んでいると言う。子供の年齢が同じということもあり、二人はすぐに意気投合した。
「うちの息子ね、女の子と話せないの。身内は別なんだけど……あっ、思春期ってわけじゃなくてね? 多分心の病気なのかもって、ママが」
「それは……心配ね」
阿來は同情的にそう言って汐里の肩を抱く。そのひんやりとした手に驚くと、阿來は『私、体温低いのよ』と色素の薄い瞳を細めて微笑んだ。
何度かお茶をするようになったある日、阿來が奇妙なことを口にしたのだ。
「最近、狐輪教っていうサークルに入ったの」
「こりんきょー?」
阿來は穏やかに頷く。
狐輪教は心優しい人達が多く参加しているサークルで、他人と繋がることで幸せを感じられる。女性や子供、社会的にか弱い立場の人たちを守ることができる集まりなのだと阿來は語る。
次第に眠くなってしまいあくびが出そうになる汐里だったが、阿來が真面目な顔をしていることに気づいてさりげなくあくびをのみこむ。
「息子さんのことで悩んでるんでしょ? 私も同じ──最近まで娘が不登校だったから」
阿來は悲しげに瞼を伏せた。何か気の利いたことを言おうとして言葉を選んでいる汐里に気づいた阿來が優しく微笑む。
「今はもうちゃんと学校に通えてるわ。しおちゃんの話を聞いてたら告白したくなったの」
「娘さん、学校に通えたんだ。よかった」
「ふふ……これも全部狐輪教のおかげよ」
そんな阿來の話を聞いて、汐里は少しだけ気持ちが楽になるのを感じていた。彼女の息子は不登校ではないにしても、実生活で異性と話せないことで非常に不便を感じている。息子はいつからか、異性に対して酷く怯えるようになってしまった。それは小学校の時からだったような気もするし、中学に上がってからだった気もする。
このまま一生異性と話せず過ごすのは、家のためにも良くない。
(あの子は長男で、跡取りなんだもん)
汐里は新しく宿った命を気にしながら腹部に手を当てた。そんな汐里の心中など知ってか知らずか、阿來が声をかける。
「気になるなら、詳しい話をしようか? しおちゃんが本当に息子さんのことを心配してるなら、連絡をちょうだい。必ず力になれるから」
阿來の甘い言葉には、思わず頷いてしまいそうな魔力がある。汐里は、ぽーっとした顔で会釈をしてその場から離れた。
「私、無宗教だもん」
子供っぽく独り言のように呟いたのが半月ほど前のこと。今ではすっかり狐輪教に夢中になっていた。家族の繋がりを大切にする彼らは、汐里の寂しさを埋めてくれた。
別に欲求不満というわけではないし、夫婦仲は円満だ。新婚の時よりも回数は減ったが、営みもそれなりの回数。けれど狐輪教のあたたかさは夫婦のそれとはまた違っていて、一度知るとやみつきになる。
『次の集会で教祖様にも御報告できたらいいですね』
ふと、メッセージのひとつが汐里の目に留まった。教祖のことは阿來から聞いて知っている。息子と同い年の子供だそうだ。
「集会かぁ……あの子と一緒に行けたらな」
タクシーが家の前に停車したことに気づかず、ぼんやりとスマホを見つめている汐里に運転手が声をかけてくる。慌てて料金を払った汐里は、スマホをバッグに仕舞ってタクシーを降りた。
「ただいま──」
汐里は弾んだ声で『橘総本家』と書かれた暖簾をくぐる。今日の夕飯は、息子の大好きな寿司だ。早く喜ばせてあげたい。そう思うと、自然と足も弾んだ。




