【青葉追いあの子と遊ぶ朧月】
少年が目を覚ました時、そこはどこまでも広がる白銀だった。直前の記憶はない。ただ、こめかみが妙に熱かったことだけは覚えている。
少年は命の危険に晒されていた──のだと思う。その証拠に、胸には大きく切り裂かれた痕が残っていたからだ。傷は完全に塞がっており、不思議と痛みはない。餌を求めて彷徨う野生の獣にでも遭遇したか、まさか目の前にいる幼子が──否。そうではない。
自分は、この幼子に救われたのだ。
幼子のやせ細った体には雪が積もり、赤い瞳がじっと少年を見つめている。ひび割れた唇から白い吐息が漏れた。
その震える体を見て、守らなければと本能で感じる。元は高価な着物だったであろう杏色の服は、泥でくちゃくちゃに汚れており、棒切れのような足の先は素足。
寒かろう、おいで、と呼びかけようとするが、少年の声はしゃがれて、上手く出ない。まるで言葉を忘れてしまったかのように。まるで何十年も、何百年も喋っていなかったかのように。
幼子は小さな足で雪を踏みしめると、そそくさと身を翻した。
「待っ……!」
絞り出すように声が漏れた瞬間、強くこめかみが痛む。ずきんずきんずきん。頭を押さえてうずくまる少年に気づいた幼子が振り返る。白い吐息が柔らかく舞った。
「きどう──」
幼子はたどたどしい声で答え、逃げるように小さな足跡を残して立ち去る。
キドウ。目の前から消えた小さな恩人の手がかりは、たったそれだけだった。
男は今も、自分の名前を知らない。自分が何者なのか分からない。いわゆる記憶喪失。左のこめかみにある赤い翼を模した痣だけが唯一の手がかり。
けれど、自分の素性など分からなくても男は困らない。自分が何者か知らなくても、すべきことは分かっている。それは誰に命じられたわけでもなければ、本人から頼まれたわけでもない。
ただ自分がそうしたいから、傍にいる。
「二十四年か」
「は?」
「俺とお前さんが出会ってからの年数だよ。今年で二十四年だ」
興味の無さそうな、気の抜けた返事が手元から聞こえてくる。入念に髪を泡立てながら、しっかり頭皮のマッサージをしてやると、男の手の動きに合わせてゆらゆらと頭が動いた。
「流すから、ちゃんと目を瞑ってるんだぞ」
そう声をかけて、耳が濡れないように手で押さえながらシャワーを流す。しっかりと水気を切って、すぐに椿油を髪に擦り込んだ。洗ったばかりの髪は指通りもなめらかで、引っかかりもない。他人の髪ながら惚れ惚れする仕上がりだ。
「今日も良い子の髪だ」
まるで幼い子供を褒めるように、バスタオルで包み込みながら男は言った。何気ない日常の細部まで大切にするように。そんな男をバスタオルの下から見つめる赤い目が眠そうに瞬く。
「てめえ、いくつになった?」
「お前が今年で二十九だから……三十、八とか九くらいだろ」
「ふーん……」
眠そうな生返事が聞こえる。風呂から上がったばかりで、彼の体は水分を欲していることだろう。水差しを手に取って口に含み、それを口移ししようとすると、男の袖が掴まれた。いつまでも子供じゃない、とでも言いたげな眼差しだ。
「ダメだ。小さい頃、水が気管に入って肺炎を起こしかけたのを忘れたか? 俺のトラウマを甦らせる気かな」
眉を下げて子供をなだめるように言うと、つり目がちの赤は意外と素直に伏せられた。
一度飲んでしまった水を再び口に含み、彼の顎をそっと上へ向かせる。やんわりと重ねた唇を柔く食んで、さらさらとした黒髪に指を絡めると小さく喉が震えた。飲み込みきれない透明な雫が痩せた顎を伝うたび、こめかみの痣が甘く、熱く疼く。
やがて唇が離れ、腕の中で小さく呼吸を整えた彼が赤い瞳を眩しそうに細めて男を見上げていた。
「痛むのか?」
彼の手がこめかみの痣を撫でる。普段から他人を気遣うことのない彼が、男だけに見せる特別な顔。そんな表情を独り占めしている優越感と幸福が男の胸を支配していた。
「本当にかわいいなお前は!」
「全然大丈夫そうじゃねえかよ、うぜぇ……」
男は感極まって腕の中の体を抱きしめる。呆れたように言いながらも無防備な体を預けてくるあの子を、世界中の何より愛おしいと思う。それは親が子供に向けるものとはまた違った愛情。恩人に抱く感情にしては、少々下心が混ざっている自覚はある。ゆえに、彼を騙しているような罪悪感も少しだけ。
それを恋や愛だと自覚してしまっては、今度こそ口付けだけでは済まないかもしれない。
(それでも俺は──)
きっと、自分は彼と出会うために生まれてきたから。今日も男は全力の愛をただ一人に注ぐ。




