【始まりの音】2★
病院に着くや否や、楓の数珠が妖しい光を放った。普段、数珠の中には、戦いの時にしか呼び出すことのない妖がそこに封じられている。赤い光とともに現れたのは白いしっぽをゆらゆらさせた褐色肌の少年だった。
「お疲れサマ〜。じゃ、ボクは帰るね」
それは何事もなかったかのように片手を上げて、楓たちの前から立ち去ろうとする。楓は慌てたように少年の袖を掴んだ。
「おい、猿神! 勝手に──」
制止を試みた楓だったが、呆気なく腕を振りほどかれて手首を掴まれてしまう。
「何回目? ボクは猿神じゃなくて──牛尾日吉って言うの」
不服そうにしっぽを揺らしながら視線を合わせてくる猿神の目は血のように赤い。じっと見つめていると、そのまま喰われてしまいそうな危機感すらある。
「陰陽師って、軟禁趣味でもあるの〜? 自分の家に帰ることがそんなに悪いのかなぁ」
のんびりとした猿神の言葉に合わせて、しっぽが左右に揺れた。しかし、彼のペースにのまれてはならない。楓は一度瞼を伏せてから猿神を見据える。
「お前……また悪さをするつもりだろ。人を殺して、心臓を……」
最後まで聞くことなく、猿神はあからさまに面倒くさそうな舌打ちをする。
「心臓は好きだけど今は食べないよ」
「今はって、それじゃあいずれは──」
猿神は楓の追求から逃れるように耳の穴に指を突っ込んだ。
「うるさいうるさい〜。何でボクが楓サンの言うことを聞かなきゃいけないの?」
はあっとため息をついた猿神は、掴んだままの楓の右手首を忌々しげに見つめると、挑発的な流し目を送った。
「お前──」
楓が腕を振りほどこうとしたその時、猿神がおもむろに自らの喉に手を当てて鬼原ハクの声を真似る。
「やめて欲しいなら、楓くんから私にキスして」
「なっ!?」
ハクの声真似をした猿神はケラケラと笑って楓から離れると、ハクの体を盾にするように隠れた。
「女の子をあんまり束縛したら嫌われちゃうわよ」
「こ、コイツ……!」
なおもハクの声真似をする猿神に堪忍袋の緒が切れた楓が思わずつかみかかろうとする。その瞬間、猿神がハクの肩を離して楓に押し付けた。
「な、な……!」
「ケケッ」
咄嗟にハクを抱きとめた楓は、照れくささであたふたと両手を上げる。その隙に、猿神は悠々と病院の外へ出ていってしまうのだった。
「お、おいっ!?」
病院の外には黒塗りの高級車が待ち構えている。彼を迎えに来たのだろう。慌てて声を上げる楓の声を背中で聞いた猿神は、不遜な態度で言った。
「うるさいなァ〜! 呼ばれたらまたこき使われてあげるから。だからそれまでボクのことはほっといてくれたって良いじゃん!」
猿神はまるで子供が駄々をこねるように言うと、振り返ることなくしっぽをゆらゆらと振りながら高級車に乗り込んでしまう。
「お前の連絡先なんか知らないんだよ、こっちは……」
呆然と車を見送りながら呟いた楓の言葉は、当然彼の耳に届かない。小さくため息をつく楓を気遣ってか、ハクが楓の袖を軽く引いた。
「そろそろ私達も行かない? 楓くん」
ハクは遠慮がちに病院の受付を指している。先程の猿神のやり取りからずっと見ていた受付の看護師が何となく気まずそうに苦笑していて、楓は顔から火が出そうな気持ちで受付へと向かった。
意識を取り戻した柊と面会するのは初めてのことだ。彼に問わなければならない言葉は、楓の頭の中にずっとある。けれどその答えを知った時、自分はどんな感情を抱くのか──。
考えながら、次第に足取りが重くなる楓の手をハクが優しく握る。
「大丈夫よ」
その一言だけで、楓の心は解される。一人だったら、ずっと悶々と考え込んでしまっていたはずだ。ハクの心遣いに感謝しながら廊下を進む楓だったが、病室から何者かが出てくることに気づいた。それは異質なオーラを放った二人組だ。一人は楓と同じくらいの背丈をした、痩せた青年。鳥の巣のようなボサボサの黒髪を肩まで垂らしており、窪んだ眼下に土気色の肌。猫背が目立ち、立っているのが不思議なほどガリガリにやせ細った足が着物から覗いていた。一見、死人のようにも見える。
「ちっ……来て損した」
「まあまあ。無事が確認できてよかったじゃないか」
もう一人は、髪を剃りあげた坊主頭の男だった。どちらも和服に身を包んでいる。そのうちの一人──鳥の巣のような頭をした土気色の肌の青年が楓に気づいてきた。窪んだ眼窩から覗く瞳は血のように赤い色をしている。
「……ッ」
すれ違いざまに生気のない瞳に見つめられて、楓は無意識に半歩後ずさる。彼の瞳の奥にある只者ではない雰囲気に圧倒されていた。
「……だりぃ」
青年は楓を一瞥したが、何事も無かったように彼の横を通り過ぎていく。白檀の香りが鼻腔をくすぐった。後からついてきた坊主頭の男が呆れ顔で近づいてくる。
「やれやれ、ありゃ道中で甘味処に寄らないとずっとご機嫌ナナメだな──すまないがこの辺りで美味いスイーツの店を知らないか? 和菓子洋菓子、何でもいいぞ」
坊主の身長は高く、体つきもガッシリしているため威圧感がある。楓は戸惑いながら男を見上げた。両耳には金色のピアスが開けられており、僧侶と言うにはずいぶん俗世的な風貌だ。
「駅のそばにパンケーキの店がありますけど」
「情報ありがたい! 早速行ってみるとして──」
坊主は快活な声で礼を言うと、おもむろに楓をしげしげと眺めた。その視線は、どことなく値踏みするようでもある。
「それじゃあまた──近いうちにまた会おう、鬼道家の当主様」
坊主はそう言って軽い足取りで青年の元へ向かった。並んで歩いているとまるで親子のような背丈だ。
「な、何だったんだ……」
呆気に取られていた楓は、彼らが出てきた病室の扉が半開きになっていることに気づく。壁のプレートには【鬼道】の文字があった。
(親父の知り合い?)
何となく彼らの後ろ姿を確認するように顔を向けるが、既に彼らの姿は無い。楓は病室の前で立ち尽くしたまま、どことなく緊張した面持ちで病室の扉に向き直った。
「ふーっ……」
小さく深呼吸をして病室の戸を開けると……。
「鬼道さんいけませんったら。んもう」
「たははは、いいだろ? せっかく意識が戻ったんだからよ、ひとつ楽しませてくれよ」
室内では柊が若い看護師を捕まえて猫撫で声で口説いていた。楓はそっと扉を閉める。
「帰りましょう」
「えっ、でも……」
「良いんです。帰りましょう」
淡々とした声でハクを説得していると、慌てたような足音と共に病室の扉が開いた。
「おいおいおい! 何だよ楓にハクちゃんじゃねーか! 水臭いぜェ? 寄ってけよ。八つ橋あるんだ。食う?」
「一生寝てれば良かったのに」
「それが九死に一生を得た父親に言う台詞かァ?」
辛辣すぎる息子の言葉に、柊はわざとらしく袖で涙を拭うような仕草をする。
「おじさま、元気そうで良かったです」
「おう! って、まだ痛むけどな……」
柊は苦笑しながら腹を押さえると、『まあ入れよ』と言って二人を病室に招く。しなを作っていた看護師はそそくさとベッドから降りると、身だしなみを整えてから楓たちの横を通り過ぎていった。
「まあ、その……何だ。迷惑かけちまったな」
「迷惑なら今早速かけられた」
「傷口に塩を塗ってくれるな。こちとら昨日目が覚めたばっかりだぞ」
「知るか。僕たちがどんな気持ちでいたと思ってるんだか」
柊は目を細めると、楓の肩に手を置いて『そだな』と短く言ってからベッドに腰掛けた。
「すみれのこと、聞きに来たんだろ」
はしゃぎすぎたのか、柊は少し疲れた顔でベッドに体を寝かせた。まだ体力が完全に戻っていないようだ。そんな柊を気遣って、ハクが布団をかけてやる。
「母さんを殺したのは、古御門ゆりさん……だろ?」
柊は静かに天井を見つめたまま瞬きをする。その眼差しから彼の感情は読み取れないが、やがて小さく頷いたように見える。
柊は血のように赤い瞳で我が子を見ると、楓を手招いた。手の甲でヒタヒタと楓の頬を撫でて、少し笑う。
「ゆりちゃんが全部悪いわけじゃねェ。それも含めて、いずれお前にゃ話さねーといけなかったんだけどな……」
柊は少し考えていた様子だったが、やがて楓とハクの顔を見てゆっくりと口を開くのだった。




