【強さと弱さ】2★
「コイツ……」
姿見からゆっくりとその姿を覗かせた黒蛇は、巨大な体を窮屈そうに折り曲げながら大きな口を開ける。その口から吐き出されたのは漆黒の霧だ。
「結界の外に出ただけで死ぬ猛毒だぜ。普通の人間なら──だけどな」
どこか含みのある冥鬼の説明を受けて、楓は表情を曇らせる。もう彼の知る古御門泰親は居ないのだ。あるいは、初めて会った時から──。
「く……」
彼を相手にすることへの迷いと、恐怖がここにきて楓の決心を鈍らせる。それでもオサキと黒蛇は倒さなくてはならない。
「急急如律令──写染、緋火落葉……!」
無地の札に術式が描かれ、天井から炎を纏った落ち葉が降り注ぐ。それは瞬く間に燃え広がって室内を煌々と照らした。
しかし、泰親は動じる様子も見せずにくつくつと笑う。風が靡くように袖から覗いた枯れ木のようなその手には、怨憎符が握られていた。
「漆黒冥天よ」
泰親の言葉と共に漆黒の壁が彼らを覆い、炎を吸収する。怨憎符によって楓の攻撃は無力化されてしまう。しかし、彼の力はそれだけではなかった。
「ぐ……ああああっ!!」
漆黒の壁から放たれた波動が周囲に広がった瞬間、脳を内側から激しくかき回すような激痛が楓を襲った。結界を張り続ける彼の精神力を奪うかのように、怨憎符の力が楓を苦しめる。
(意識、が……)
皮膚の下から体を食い破られるような激しい痛みが楓の全身を襲い、とうとう膝をついてしまう。
「ちっ……弥生!」
すぐに八雲が楓の治療のため式神を出現させる。冥鬼の元で傷を治している水無月はそのままに、新たに出現した式神弥生は楓の元へと向かった。外傷は癒せても、体の内側から与えられる痛みは治すことが出来ない。そこで弥生の加護で、周囲に甘い花の香りが立ち込める。楓の張った結界は強化され、花の香りを吸った楓の痛みは僅かに和らいだ。どうやらその香りは、神経に働きかける作用があるようだ。
「はあ、はあ……や、八雲さん……」
「二度と隙を見せるな。あれを殺すことだけ考えろ。躊躇う必要はない」
一度は下げた銃を手に八雲が言った。冷たい声だったが、それは彼なりの気遣いだろう。楓は浅い呼吸を繰り返して頷きを返し、震える左手を右手で支えた。
今集中力を切らせば、自分たちは丸裸になってしまう。二人の足でまといになるわけにはいかない。
「殺す? ジジイ一人も殺せなかったアンタがそれ言っちゃう?」
獣は周囲が炎に飲まれても動じる様子すら見せず、ケタケタと笑いながら管狐を使って結界を壊そうとする。
「邪魔くせえなッ──もう!」
無尽蔵に出現して不快な笑い声を上げる管狐から結界を守るように、冥鬼が大剣を振るう。しかしそのたびに、彼女の体からは白い湯気が立ち上って冥鬼の限界を知らせていた。
斬り捨てられるたび煙と化す管狐たちの、個々の攻撃力は強くない。おそらく冥鬼を消耗させるのが目的だ。
「ほら、おかわりだよ」
休む暇すら与えずに、獣がパチンと指を鳴らす。濃霧の中から再び姿を形作って、無数の管狐が結界を打ち破るように飛びかかってきた。
長引く戦闘は、確実に彼女から妖気を奪っていく。冥鬼が僅かに呼吸を乱した時、彼女を守るように炎狗が管狐たちに飛びかかった。
「冥鬼、もういい。あとは僕がやる。お前ばかりに負担をかけたくない。僕にどこまで出来るかは、わからないけど」
結界に意識を集中しながら前に進み出た楓が冥鬼を気遣う。冥鬼は息を吐き出すように笑った。
どこか頼りなく見えた背中が、今ではとても大きく見える。
「はッ……そこは僕に任せろって言いきれよ」
眩しそうに笑って言った冥鬼は、深く深呼吸をした。妖気を纏って自分の体からチカラが抜けないように意識を保つ。大剣を握った指先が冷たくなっているのが、痛いほどわかる。
小さく震える手のひらを強く握った冥鬼は、楓に近づいてその肩に手を置いた。
「ハクねーちゃんのこと、幸せにしなかったら殴るぞ」
吐息混じりにそう言った冥鬼が結界から抜け出したのは一瞬だった。大剣に大きな炎が宿る。結界を食い破ろうとする管狐は振り上げられた大剣によって次々に屠られていった。
「舐めんな!」
冥鬼の怒号と共に彼女を纏う炎が強くなり、大剣にも力を与える。室内に濃霧が充満している限り、管狐は無尽蔵に出現していく。
(やっぱぶち殺すか……あの男!)
濃霧の中に潜むオサキの姿を探るように、冥鬼の赤い瞳が光った。
「どうでもいいんだけどさぁ〜」
濃霧の中で声が獣の声が反響する。
「その結界、綻んでんだよね」
その声は楓の耳元から囁くように聞こえた。楓の視界に金色の毛並みが見える。そんな、と楓の口が動いた。
獣が結界の中に居る。楓の全身から血の気が引いていった。
(まずい──!)
目を瞑る暇さえ与えずに、獣の爪が振り下ろされる。楓を確実に殺すために。八雲の銃も間に合わない。
楓が死を覚悟したその時だった。
「九兵衛! 後ろから来ます!」
獣の手がビクッと震えて振り返る。それは聞こえるはずのない狗神鏡也の声だった。まさか頭を撃ち抜かれて生きているのか。身構える楓だったが、それはすぐに違うと分かった。狗神鏡也は完全に絶命している。
「キョーヤ、さ──」
かは、とオサキの口から血がこぼれた。結界の外で管狐の相手をしていた冥鬼が、鬼斬丸で獣の胸を貫いていたのだ。
「ふーっ、馬鹿デカい声出してくれて助かったぜ」
珍しく焦った様子で苦笑した冥鬼が、躊躇いなく深々と獣の胸を串刺しにする。体を貫通した大剣からは鮮血が滴っていた。
獣の耳すら騙した声は、誰が聞いても狗神鏡也そのものだ。しかし、彼は既に死亡している。
「い、一体誰が……」
狗神の声がした場所をまじまじと見つめながら楓が呟く。
「ボクの猿真似、完璧だった?」
右手の数珠から軽快な声が聞こえた。その声は忘れもしない。ハクを攫い、数々の人間を襲った凶悪な妖怪、猿神だ。トドメを刺すことが出来なかった楓によって使役され、以降何度呼びかけても返事すらしなかった妖怪。
「さ、猿神……? お前、何で」
「いやぁ、楓サンが面白いコトやるって全部聞こえてたし〜」
猿神は、相変わらず耳障りな声でケラケラと笑う。
「これで借りは返したからネ」
借りというのは、楓が猿神を殺さずに使役をしたことだろう。楓は数珠を見つめて戸惑っていたが、やがて『ありがとう』と感謝を口にした。彼が居なければ、自分はとっくに死んでいたのだから。
「さて」
冥鬼のその言葉を合図にして、一瞬にしてオサキの胸元から炎が上がる。彼を貫いた刀身がごうごうと燃えていた。
「貴様も終わりだ」
冥鬼の言葉と共に、一気にオサキの体が燃え上がる。既に絶命しているのか、オサキの反応はない。
完全にオサキが動かなくなったのを確認して、冥鬼がその体ごと大剣を振るう。大剣が引き抜かれたオサキの体が、ぐしゃりと地面に倒れ込んだ。
「やった、のか……?」
「おう!」
既に管狐は辺りから消え去っている。オサキの息の根を止めた何よりの証拠だろう。
「あとは貴様たちだけだ」
冥鬼の大剣が黒い大蛇へと向けられる。その切っ先に宿った炎が大剣全体を包み込んで巨大な剣と化し、赤い角が呼応するように強く輝いていた。
「愛らしい娘の姿をしてやることは悪鬼羅刹か」
くく、と泰親が笑う。その挑発に冥鬼は答えなかった。
「冥鬼、僕が援護する」
楓の声と共に、札に術式が描かれる。バチッと札に稲妻が走った。少し驚いたように目を見張る楓だったが、その眼差しにもう迷いは無かった。
「急急如律令──写染、鬼哭冥夜」
その言葉と共に、冥鬼を護るように大きな炎の羽衣が彼女を包み、一瞬頭上に鬼のシルエットが出現する。
「ははッ……コイツは……」
目を丸くしてそれを見つめた冥鬼は、体に纏う羽衣を愛しげにギュッと抱きしめる。手の震えも、妖気を失ったことによる寒さも、羽衣があたためてくれた。それがどれだけ心強かったか、きっと彼女の主は知らないだろう。
冥鬼は、くしゃっと笑って楓に振り返った。
「楓、オマエやっぱり世界一カッコイイぜ」
そんな彼だからこそ、冥鬼は全てを賭けられる。羽衣を纏った冥鬼が結界の外へと飛び出した。大蛇の吐く猛毒の霧の中を、一目散に駆け抜ける赤い炎が一層強くなった。やがてその炎は空を舞い、大蛇の頭上へと躍り出る。羽衣を身にまとったその姿はまるで天女に儚く、そして美しい。
「焔鬼剛之太刀!」
冥鬼の雄叫びと共に、炎を宿した大剣が姿見ごと大蛇を斬り裂いた。それは姿見と共に空間までも裂き、黒く深い闇が口を開けている。彼女の強すぎる力が次元を歪め、人間界と常夜を繋げてしまったのだ。
「す……素晴らしい、これが……これが常夜か」
泰親が感激したように闇の入口へと近づいたその時、パン、と乾いた音が聞こえる。泰親の後頭部を八雲が撃ったのだ。ぐらりと泰親の体がよろめく。楓はハッとした顔で八雲に振り返った。
「八雲さ──」
パン。
再び八雲の銃が泰親の後頭部を貫く。その大きな音にビクッと肩を震わせて、楓が耳を塞いだ。
「──」
八雲の発砲は止まない。これではまるで屍に鞭打つようなものだ。楓が何かを言いかけるが、ゾッとするほど冷たい琥珀色の瞳に息を飲んでしまう。恐ろしくて残酷な目をしているのに、楓にはどこか感情を押し殺しているようにも見えた。
「八雲、さん……」
再度、何度目かの引き金が引かれる。楓はもう、八雲に言葉をかけることができなかった。
「……」
やがて泰親の瞬きが止む。絶命したのだろう。八雲が銃を下ろそうとした時、ゆっくりと泰親の首がありえない方向へと回転する。ごぽっと口から血を溢れさせた泰親は、八雲を瞳に映すとニタァ、と笑って言った。
「やはり、尾崎の血は呪われている」
無表情だった八雲の表情が、その一言で大きく歪む。当時に、肉の切れる音が聞こえて泰親の首と胴体が離れる。冥鬼の大剣が泰親の首を斬り落としたのだった。
「黙って死んどけ、バーカ!」
泰親の首は亀裂の間に落ちて暗闇の中を転がっていく。首から下の胴体は、そのまま崩れ落ちて常夜の亀裂に寄りかかるように、ぐにゃりと座り込んだ。
それは、長い戦いの終わりを意味する。




