【獣の見る夢】2★
「村の外に出るのは初めてでしょう? これからは毎日、色んな場所に連れて行ってあげますよ……八宵」
箱を撫でながら愛しげに鏡也が呟く。彼の足は、古御門家で最も出入りをしていた場所へと向かっていた。主治医である鏡也は、自由に古御門泰親の部屋に入ることが許されている。
当主として古御門家を長く治めてきた彼の心中を知る者は少ない。娘であるゆりや、養子でありながら信頼されている八雲でさえも。
「やれやれ、着いてしまいましたか」
苦笑気味にそう言った鏡也が箱を胸に抱き直す。部屋の前にはいくつもの札が貼られており、鏡也は無造作にその札を剥ぎ取って襖を開けた。暗がりの部屋はひんやりとしていて、部屋の中央では泰親が静かに座禅を組んで沈黙している。柊たちを襲った際に大量の妖気を放出したせいか、彼はこうして深く瞑想をしていた。そのおかげで、鏡也は八雲たちを手元に戻すことができたわけだが。
(このまま死んでくれても私たちは構いませんよ、ご老体。まァ、その分九兵衛に無理をさせることにはなりますが……)
鏡也は冷たい目で泰親を一瞥すると、一応彼の容態を見るために隣に腰を下ろした。鞄を開いて特別に調合した薬を慣れた手つきで配合し、泰親の枯れ木のような腕へと注射する。
ぴくり、と泰親の瞼が動いた。どうやら意識を取り戻したらしい。
「おはようございます、古御門先生。お加減は如何です?」
鏡也はそう言って『獣鳴村の天然水』と書かれたペットボトルの水を泰親へ差し出した。泰親はそれを一口飲んで小さくため息をつく。
「八雲とキイチは、見つかったか?」
「いえ、懸命に捜索しているんですがねぇ──ああ、でもかんなぎは見つけましたよ」
鏡也は眼鏡のブリッジに指を当てて笑いそうになるものの、何とかこらえて返事をした。
彼は故郷で培った呪いと薬の秘術をたっぷりと使って、古御門泰親に様々な妖怪を食わせてきた。今の泰親は人の姿をしているが、中身は妖怪そのものだ。それは、長命を望む泰親自身が望んだ結末でもある。
「おお……かんなぎ! ようやく見つけたのか。どこに居る?」
「焦らなくても、すぐに用意させますよ。食事は仕込みが重要なのです」
興奮している泰親をなだめながら鏡也がもっともらしく笑う。
泰親はひたひたと足音を立てながら部屋の中を落ちつかなげに歩き回り、鏡也の横を通り過ぎていく。襖を開けて部屋の奥に向かった泰親は、暗がりの中にひっそりと置かれた姿見へと近づいた。古びた姿見には布がかけられている。
「かんなぎの肉を得れば、私は不老不死となる。人と妖を支配し、この世も──常夜すら思い通りに操れる」
泰親が布を取り去って姿見の前に立つ。姿見に映ったその姿はぐにゃりと歪んでいた。
「ははぁ、立派な鏡ですねぇ」
「この姿見は、常夜とこの世を繋ぐもの。ここから好きなだけ妖を呼ぶことができる」
「それは心強い」
鏡也がニコニコと笑った。至極どうでも良さそうな顔をして。そんな鏡也に気づくことなく、泰親は楽しそうに続ける。
「そうだ、お前にもかんなぎの肉を食わせてやろう。私の隣で世の中がどうなっていくか見るといい」
泰親はケタケタと笑っている。思いがけない提案に目を丸くした鏡也だったが、苦笑混じりにかぶりを振った。
「いえいえ、私はもう充分生きました。この世に未練も……」
鏡也の脳裏に浮かんだのは、八宵の姿だった。しかし思い出の中の八宵の笑顔は遠くおぼろげで、よく見えない。それだけ長い年月が経ってしまったせいだろう。あんなに愛していた存在は、既にこの世には居ないのだ。
「まったくありませんよ」
狗神がそう言ってへらっと笑った。泰親は理解できないとばかりに鼻を鳴らし、鏡也が抱いている箱に目を留める。
「ところで、先程から気になっていたがその箱は何だ?」
「──ああ」
鏡也は木箱を撫でながら言った。
「この中には、私の──」
鏡也が言いかけた時、パン、と銃声が響く。頭を撃ち抜かれた鏡也の体は、呆気なく畳の上に倒れた。鏡也の腕から落ちた箱は蓋が外れ、畳の上にパラパラといくつもの小さな白い石のようなものが散らばる。いびつな形をしたそれを一瞥した泰親は、ゆっくりと顔を上げた。部屋の前で銃を構えた若い男が立っている。
「お前は……そうか、戻ってきたのか」
泰親が嬉しそうに笑う。鏡也を撃った銃口は、古御門泰親へと向けられていた。
「あなたを殺すために、戻ってきた」
そう言い放ったのは古御門八雲。隣には、泰親の孫である鬼道楓が立っていた。




