【紗雪の世界】2★
その声と共に轟音が響き、楓の足元に氷柱が突き出る。楓は床に放り出されるようにして地面を転がった。
「ぐあっ!」
咄嗟に地面についた手が焼けるように冷たくて目を見張る。顔を上げた楓の視界に飛び込んできたものは、氷の世界だった。天井は果てが見えないほど真っ暗で、月も星もない。ただどこまでも広がる氷がそこにはあった。そして、暗くて広い氷の世界に氷で磔にされた少女が一人。
「東方……清音。私の、ご主人様……だよ。とっても、優しい……私の、友達」
紗雪が白い息を吐き出しながら清音の頬を撫でた。長い間拘束されていたのか、清音の肌は青白くなっている。楓は何が起きたのか理解できないまま、目の前にいる少女を警戒して体を起こそうとした。氷は楓の体を地面に縫い付けるように靴を凍らせようとしてくる。
「大好きな楓くんの……ことも、つららのアートに、して……あげるの」
うっすらと微笑んだ紗雪の言葉と共に楓の足元から氷柱が突き出した。楓は今度こそ、自ら地面を転がって紗雪の攻撃を避ける。
「ど、どうしてそうなるんだ!? さゆ、一体何があった!?」
「ふふ……」
楓の問いかけに紗雪は応じない。ただ口元に笑みをたたえて、小さな手から氷柱を突き出した。眉間めがけて突き出されたそれを何とかかわした楓は、くしゃくしゃの和紙を手にして強く念じる。かすかな熱が、和紙へと転写されていくのを感じた。
(できる、できる、できる……!)
焦った心で強く念じる。しかし紗雪の攻撃は考える時間など与えてくれない。次々に繰り出される氷柱から逃げるだけで楓の集中力は切れてしまった。
「ああっ!」
紗雪の氷柱が地面から勢いよく生え、楓の体は吹き飛ばされる。まるで少しずつ弱らせて、いたぶって殺していくように。紗雪が攻撃を仕掛けるたびに空気が震え、清音を捕らえた氷がパラパラと地面に落ちた。
「逃げ、て……鬼道楓」
清音が小さく唸る。そのまつ毛はあまりの寒さで白く凍りついていた。
「さゆは、尾崎先生から私を庇って……自我を失った、の……。私の声も……届かない」
清音は浅い呼吸を繰り返しながら訴えた。紗雪の攻撃を喰らって地面に倒れ込んだ楓が、呻きながら手をつく。何度も吹き飛ばされて頭がくらくらするせいか、すぐに立ち上がれない。
「だったら……なおさら、僕が、助け……」
「無理よ……あなたじゃ。避けるだけで精一杯じゃない……」
紗雪の強さは、清音が一番よく知っている。彼女はいつだって冷静で、そして誰よりも冷酷な妖怪だ。きっとこのままでは少年は倒されてしまう。それが分かるのに、今の清音には何もすることができない。氷に捕らわれた彼女の指先は、既に自分の意思では動かない。この状況を打破したくても、それすら敵わなくて。
「全部、私のせいなのよ……」
清音の瞳に涙が浮かぶ。意識がハッキリすればするほど、彼女の中に後悔の念が膨らんでいく。
母親が心肺停止となった連絡を受けてすぐ、彼女たちは引き裂かれた。ショックで動揺する清音の目の前でヒスイが力尽き、紗雪の意識は奪われる。
『これで清音ちゃんの大事なもの、全部無くなったね』
九兵衛は両の手のひらを見せて笑うと、紗雪に清音を任せて濃霧に消えた。その場に残された清音はへたりこんだまま、魂の抜けたような目をした紗雪を見上げる。
『さゆ……お願い、やめて!』
涙を浮かべて訴える清音に、紗雪が耳を貸すことはなかった。気がつくと、冷たい氷の世界に閉じ込められていたのだ。
これも全て、自分が原因だと清音はぼんやり思う。母親を守りきれなかったのも、ヒスイを傷つけたのも、清純を奪われたのも。そして、紗雪が操られてしまったのも。
こらえきれない涙が清音の頬を伝った。
「このまま……死んじゃいたい」
出会ったばかりの少年に向かって、清音は弱音を吐いていた。これがヒスイや黒丸なら言えなかった。もちろん、大好きな父親にも。
「お母さんを守れなかった、私なんか」
清音が小さく泣きじゃくる。ふと、楓の脳裏でチカチカと何かが光った。涼し気なワンピースを纏って日傘を差した若い女性が振り返る。
写真立ての女性だ、と楓にはすぐ分かった。黒髪を揺らして優しく微笑んだその女性の雰囲気はハクに良く似ている。
『楓くんなら、きっと大丈夫』
聞いた事のない母の声が、ハクの声と重なった。幼い楓が守れなかった人。その理由さえも今は思い出せないけれど。
『楓くんは、とっても強いのよ』
その姿が、眩しい夏日に溶けて炎へと変わる。一瞬の白昼夢に、楓は憑き物が落ちたような顔をして自分の手を見下ろした。
(今のは……)
強敵を前に現実逃避をしてしまったのかと錯覚したが、胸を締め付けるような恐怖感も痛みも不思議とない。くしゃくしゃになった無地の札に、知らない文字が描かれている。けれどそれは確かに楓の字だった。
「──生きてくれ、東方さん」
白い息を吐き出しながら楓がゆっくりと体を起こす。小さく清音の肩が跳ねた。
「そして見ていて欲しい。僕がさゆを助けるところを」
血のように赤い瞳がさゆを見据える。それは、彼の師匠から受け継いだアドバイスだ。楓は小さく息を吸い込むと、紗雪を挑発するように言った。
「来いよ、さゆ。本気の僕はすごく強いぞ」
その挑発を聞いて、清音は弱々しくかぶりを振る。
「ダメ……あなた、こんな時に冗談言わないで……」
「冗談なんか言うわけない」
楓はそう言ってふーっと白い息を吐き出した。
紗雪が操られているのであれば、その呪いを解かなくてはならない。前回は黒丸とオオルリの力を借りたが、今の楓に特別な力は何も無い。
「僕は本気だ」
自信を持てと黒丸は言った。自分は一人ではないのだと。
楓が札を紗雪に向ける。それはほのかな赤い光を放っていた。
「鬼火常夜 」
その言葉と共に、楓の札から赤い炎が長い尾を引いて紗雪に向かって放たれた。すぐに踵を蹴って大きく後退した紗雪の後を炎が追尾する。
「追いかけっこ……? あの時と、逆……だね」
足元から氷の粒が舞い上がり、空へ浮遊した紗雪の後を炎が自由自在に飛び回る。炎は速度を増して紗雪に追いつくと、大きく弾けた。もちろんこれで紗雪を弱らせることが出来るとは思っていない。
「楓くんの、真似……するね」
氷の塵と共に炎が振り払われ、紗雪が楓に指を向ける。次の瞬間、小さな指から氷柱の雨が降り注いだ。当たれば間違いなく皮膚は貫かれてタダでは済まない。楓は大きく息を吸って右手の数珠に語りかけた。
「──炎狗」
その呼びかけに、数珠の中から炎を纏った狗が飛び出す。炎狗は降り注ぐ氷柱の雨に向かって炎を噴き出した。炎は楓を守るように氷柱を溶かし、彼の周囲には無数の氷柱の雨が突き刺さって巨大な剣山へと変わる。
夏休みの合宿で、紗雪は楓の姿をした冥鬼と戦ったことがある。あの時の楓には感じなかった恐怖が彼女の中で膨らんでいた。
「楓くん……前と、違う……?」
紗雪の口元から漏れた白い冷気が小さく揺れる。周囲の気温が一気に下がり、はらはらと雪が舞い始めた。それは次第に風を伴う吹雪となって楓たちに降り注ぐ。しかし楓はもう膝をつかなかった。彼の体からは湯気が立ち上り、少しずつ氷の地面を溶かしている。紗雪は無意識に後ずさった。
(私、怖い……の? ううん……)
不安を覚えた紗雪の心に反応して、地面から出現した氷柱が楓に到達する前に粒子へと変わる。紗雪の知っている頼りない眼差しは今、血のように赤くて恐ろしいほど美しい。いつもの、戸惑いと迷いを孕んだ眼差しは消えている。まるで、途方もなく凶悪な化け物と遭遇してしまったような、そんな恐怖が紗雪を包んだ。
「来ない、で……」
紗雪の声とともに吹雪が強くなる。目を開けていられないほどの風が楓たちの視界を遮った。紗雪の肩に雪が積もっていき、肌を凍らせていく。しかしそれよりも強い熱が楓の体を包んでいた。彼の体を覆うその湯気は次第に赤い炎となっていく。
「来ないでっ!」
吹雪が楓に吹き付け、紗雪の気持ちに応えるように勢いを増していく。細かな氷の粒が楓の頬を切った。僅かに楓が目を細めるが、確実に紗雪へ歩み寄っていく。
逃げようと後ずさった紗雪は、足元にヒビが入っていることに気づいて小さな悲鳴を上げた。紗雪の世界が崩れようとしている。
「いやっ……!」
紗雪の悲痛な叫びが響いた時、彼女たちの足元が崩れた。紗雪の体が、暗闇へと投げ出される。
(落ち、る……)
このまま、自分の世界のずっと深いところまで落ちていけたら、内気な彼女を傷つけるものは何もない。清音と楓をこの世界に閉じ込めて、ずっとずっと一緒に居よう。
ゆっくりと紗雪が瞼を伏せようとすると、視界に赤い光が見えた。楓の伸ばした手が、紗雪の体を引き寄せて強く抱きしめたのだ。
「さゆ!」
楓の体から発せられる熱が、紗雪の肩に積もった雪を溶かしていく。焼けるほど熱いはずなのに、それはとても心地良い。彼女に語りかける楓の声は、いつもの楓だった。
「僕は今でも、お前のことを同じ部活の仲間だと思ってる。友達だと思ってるんだ」
紗雪の凍りついた心を溶かすように優しい熱が染み込んでくる。楓をぼんやりと見つめていたその瞳に、小さな光が灯り始めた。
「と、もだち……?」
紗雪がその言葉を口にして楓を見上げる。目の前にいるのは化け物でも何でもない、彼女がよく知る楓の顔だ。清音以外で、初めて彼女の心に入ってきた人間。
(私のこと……ともだちって、言った、の……?)
白い頬がほんのりと桃色に変わる。寒さを好むつらら女郎が本当の恋を思い出した時、彼女の体から管狐が逃げるように飛び出した。紗雪を操っていた管狐だ。炎狗の体を纏う炎が大きく燃え盛ってそれを捕らえる。
「消えてくれ」
管狐を見上げた楓の瞳が細められると同時に、炎から逃れようとして暴れる管狐の体を炎狗が一瞬で食いちぎった。
「鬼道楓……あなた、何者なの?」
氷の拘束を解かれ、地面にうずくまった清音が恐る恐る尋ねる。
「陰陽師ですよ……至って普通、の」
「きゃあ……!」
その言葉と共に、楓は力が抜けたように紗雪にもたれかかった。楓を支えきれずに紗雪がしりもちをついてしまう。
「ご、めん……力が抜けて……」
謝罪しながら体を起こそうとする楓の下で縮こまっていた紗雪は、おずおずと彼の制服の端を摘んだ。
「わ……わた、し……これからも楓くんのこと好きでいて……良い、の?」
紗雪の問いかけに楓は不思議そうな顔をしていたが、やがて不器用に笑った。
「もちろん」
その笑顔は、紗雪が恋をした少年の顔をしている。紗雪の頬は、いっそう赤く染まった。




