【芥十六夜】1★
芥十六夜は、ごく平凡な人間だった。子供に恵まれなかった義理の両親が愛情たっぷりに優しく接してくれたおかげで、ひねくれることなく素直な子に育つことができたから。
やがて自分が養子であることを知っても、両親のことが大好きな気持ちは変わらない。それは両親も同じだった。血は繋がっていないが親子仲は良好で、幼い妹の面倒もよく見る優しい兄。それが芥十六夜という少年だ。
容姿に恵まれていた十六夜は、上京してすぐに知り合いの紹介でタウゼントというホストクラブで働き始める。すぐに都会に溶け込み、煌びやかな世界で生きていた十六夜の前に現れたのが、ノインという源氏名を与えられた少年だった。まだ未成年のように見えるその少年は、十六夜を探していたと語る。彼こそが十六夜の血縁者だった。
『オレ、兄さんを探してたんだ』
そう告白したノインの本名を聞いた時、十六夜は自分の本当の姓が尾崎であることを知る。のびのびと芥家で暮らしてきた十六夜にとって、ノインが辛く苦しい青春時代を送ってきたと知った時はとてもショックだった。
ノインは今、新しい父親に引き取られて二人で暮らしているのだという。毎日幸せだと話すノインの目はどこか不気味だった。ノインはすぐにその妖しい魅力からナンバーワンホストとなるがその勤務態度は悪く、店に出勤しない日も多かった。けれど、人を魅了する何かがノインにはあったのだ。ノインは、やがて古御門ゆりという金持ちに気に入られて毎日のように家に通い始める。
『古御門ゆりってホスト狂いで有名ですよ』
そう言ったのは報道関係の仕事をしている十六夜の常連客だ。古御門ゆりは自ら店に出向くことはなく、ホストを家に呼びつけては遊び呆けているらしい。業界内では常識だと客は笑っていた。
そんなある日、十六夜の元に一通の手紙が届く。それは古御門家からの手紙だった。とうとう自分にも来たのか、と十六夜は思った。ホスト狂いである古御門家時期当主、古御門ゆりがどんな人物なのか興味はある。
期待と不安が入り交じる中、古御門家に訪れた十六夜に紹介されたのは古御門ゆりではなく、八雲だった。
八雲は愛想のない、陰のある少年だった。どこか緊張した表情で黙ったまま目の前で正座をしている少年を見て、十六夜は納得する。自分の相手はゆりでなく八雲なのだと。男の相手は初めてだったが、仕事だと思えば気持ちを切り替えなければならない。
『優しくするから大丈夫。緊張しなくていいよ』
何となく拍子抜けしていた十六夜だったが、気持ちを切り替えて八雲の腰に手を回して体を抱き寄せる。その時、古御門家当主の古御門泰親が部屋に入ってきた。目を丸くしている泰親と目が合って、事態が飲み込めずに十六夜が愛想笑いを浮かべる。八雲が十六夜の額に銃口を押し当てた。
『発砲の許可を』
『まあ待ちなさい八雲。きっと彼も混乱しているのだろうから』
泰親はそう言って八雲を押しとどめた。十六夜を見下ろしていた八雲と目が合う。その琥珀色の瞳からは軽蔑の眼差しが向けられていた。
『私の名前は古御門泰親。八雲の祖父をしておりまして。養子ではありますが大切に育ててきたつもりです』
『は、はい……』
未だに銃口を押し付けられたショックが抜けずに十六夜が生返事をする。
『八雲を本当の家族に合わせてやりたいと思い、ずっと捜索を続けておりました。まさか兄君が二人とも同じ勤務先だったとは』
『え、えーと……話が見えないんすけど?』
十六夜が苦笑気味に口を挟む。はあ、とため息をついたのは八雲だった。
『俺の兄弟はキイチだけです。これ以上の会話は不要では?』
それが十六夜と八雲の初対面だ。泰親は苦笑して、いつでも古御門家に来て欲しいとかホストよりももっと良い仕事を紹介すると言ったが、それ以降十六夜が古御門家に行くことは出来なかった。
人彼の周りでは妙なことが起き始めていて、それどころではなかったからだ。人柄もよく、友達の多い十六夜だったが昔から女運は良くなく、それが上京した理由でもあったが最近は特に酷い。
自分の客だった女性がストーカーになって付き纏ってきたり、住んでいたマンションで放火事件を起こしたりなど、頭の痛い出来事が立て続いたせいで住居を転々として疲弊しており、古御門家へ行くどころではなかったのだ。
引越しも五回目となれば慣れたもので、今日も仕事が終わった後に荷造りの続きをする予定だった。新しい住所を知っているのは店長とノインだけだ。
『オレ、呪われてんのかなぁ』
『アハッ、お祓いする? キョーヤさん、そういうの得意だよ』
送迎のタクシーの中でノインはケラケラと笑いながら冗談めかして言うと、煙草の煙を吐き出した。キョーヤというのはノインの父親代わりをしている男性だ。ずいぶん惚れ込んでいるのは会話の端々からも伝わってくる。
『本当、ノインはお義父さん好きだよな』
『だってオレの全てだもん』
ノインはそう言って笑った。子供のように足を伸ばして背もたれによりかかりながら。
『オレさ、今日でホスト辞めんだよね。キョーヤさんの手伝いで先生やることになってて。晴れて公務員デビュー』
『またお得意の嘘ね。やべ、ライター店に忘れてきたっぽい』
彼の嘘に慣れていた十六夜は、いつもの調子であしらいながら胸ポケットを探る。そんな十六夜を見てノインはいつものように笑うと、彼の髪に指を通した。自分と同じ顔をした、整った顔の男が琥珀色の瞳で十六夜を見つめている。
『何……』
『じっとしてー』
ノインはそう言うと、自分の咥えていた煙草の先端を十六夜の煙草に押し付ける。濃い煙が立ち上って、十六夜は思わず涙目になる。そんな兄を見てノインは子供のようにケラケラと笑うのだった。
そしてノインは宣言通り、次の日から店に来ることは無かった。新しい住居での生活も慣れ、ようやく落ち着いてきた十六夜の元に、予想外の人物が訪問してくる。それは古御門八雲だった。
『お前の命が狙われている』
八雲は開口一番そう言い放つ。お前に? と精一杯の冗談で尋ねると、いつかの冷たい視線が返ってきた。
『尾崎九兵衛にだ』
『いきなり何言ってんの。大体、尾崎九兵衛って誰……』
十六夜は思わず口元を押さえる。十六夜の旧姓は尾崎。そして、ノインの本名は──九兵衛だ。
八雲は表情も変えずに玄関に足を踏み入れる。
『ここは危険だ。今すぐ引っ越せ』
『引っ越せって……ここ、コンビニ近くて静かだし引っ越してきたばっかなん──』
そう言って後ずさる十六夜だったが、八雲の後ろに長い髪の女が見えた。その手には刃物を持っている。十六夜はすぐに、自分のストーカーだと思った。ただのストーカーならまだ良い。しかしこれはかなり危険なタイプだ。
女は狂ったような唸り声を上げて包丁を振りかざした。十六夜が口を開く前に、八雲が上体を屈めて刃物を避ける。女の腕を掴んで、そのまま地面に放り投げた。
『ギャッ!』
衝撃を受けた女が怯んだ瞬間、八雲の懐から黒い拳銃が取り出される。銃の先端にサイレンサーが取り付けられたそれを女の眉間に向けた八雲は、躊躇うことなく発砲した。一瞬の出来事だった。
『ひっ、人殺し……』
『話の続きをしようか、芥十六夜』
ショックを隠せずに動揺する十六夜だったが、八雲は何事もなかったように振り返る。平然と人を殺す男を前に、十六夜は目眩を覚えてその場にへたり込むのだった。




