【鬼火】2
「どーした、チビ」
ゴウ先輩の一声で、僕はようやく冥鬼の異変に気づく。冥鬼は僕の足にしがみついたまま、もじもじと両足をすり合わせていた。
「うう……おしっこ……」
メイが泣きそうなか細い声を上げる。
すぐにハク先輩が僕の手を離すと、冥鬼の目線に合わせるように腰を屈めて彼女の頭を撫でた。
「メイちゃん、お姉ちゃんと一緒におトイレに行きましょう。我慢できる?」
「……おにーちゃんといっしょがいい……」
いつも聞き分けの良いはずの冥鬼は、何故か拗ねたような声を上げて僕の足にしがみつく。
僕は、遠慮がちに手を引いてしまったハク先輩に謝りながら冥鬼を抱きとめた。
「す、すみませんハク先輩……こいつ甘えん坊で……」
「いいのよ。それより早く行ってあげて? 私は大丈夫だから」
そう言って、何事もなかったように微笑むハク先輩の足は小さく震えている。
僕は後ろ髪を引かれる思いで冥鬼を抱えると、すぐに校舎の裏へと駆けて行った。
「ちょっと寒かったからな……気づいてやれなくてごめん」
「ふぇ……」
冥鬼は地面に下ろされると、おろおろした様子で辺りを見回している。校舎の裏には雑草が生い茂っており、上手いこと用を足しても隠せそうではある。
「おにーちゃん……こわいよぉ。メイ、ひとりじゃできない……」
スカートを押さえながら冥鬼が身震いをしている。
不安そうに見上げる冥鬼の眼差しに、僕は冥鬼の頭を軽く撫でてから背を向けた。
「大丈夫だよ、近くにいるから安心していいぞ。終わったら声をかけてくれ」
ぼくがそう言うと、冥鬼はしばらく泣きそうな声を上げて駄々をこねていたが、やがて我慢ができなくなったのか適当な茂みをかきわける音が聞こえてきた。
「ぐすっ……」
おそらく用を足し終えたであろう冥鬼が、僕の後ろで泣きそうな声を上げる。
「おにーちゃん……ティッシュ」
僕は最初、彼女の言っている意味が分からなかった。ティッシュって何のティッシュだ……? なんて、反応に数秒の間を置いた僕は冥鬼の言いたいことに気づいて声を上げる。
「あ、ああ……ティッシュだな? 気づかなくてごめん! ちょっと待っててくれ」
すぐに慌ててポケットを漁るが、出てきたのはティッシュではない。御札だ。……まさか御札で拭くわけにはいかないだろう、さすがに罰当たりすぎる。そもそもこの御札はタダじゃない。総連から支給されている貴重な御札だ。トイレットペーパーの代わりに使う陰陽師なんているわけがない。
しかし、冥鬼をこのままにしておくのはかわいそうだろう。現に冥鬼は不安そうに僕を見つめているのだから。
「冥鬼、ほ……ほら、これ。使ったら返してくれよ」
僕は意を決して一枚の御札を取ると、両手でクシャクシャとさせてから冥鬼から顔を背けて御札を差し出す。
すると、小さな手が御札を受け取った。
「おにーちゃん、ありがとぉ」
すん、と鼻をすする音が聞こえた後、やがてスッキリした様子の冥鬼は僕の傍に戻ってくると、安心しきった笑顔で使用済みの御札を差し出した。僕は水気を含んでさらにクシャクシャになった御札を受け取る。例えこんなになっても御札であることは変わらない。一応、総連から支給されている高価な御札だ。……が、しかしこんな御札で退治される妖怪の身になると……。
「きゃああああッ!」
御札を持って悩む僕の耳に、絹を裂くような悲鳴が聞こえてきた。この声は──間違いない。ハク先輩だ!
「戻るぞ、冥鬼!」
僕は冥鬼を小脇に抱えると、急いで焼却炉の所まで駆け戻った。
するとそこには……。
「な、何だよ……これ」
焼却炉から立ち上る不気味な炎。
校舎の壁に寄りかかるようにして倒れている高千穂部長の姿と、焼却炉の傍で横たわっているハク先輩。
部長の手放した懐中電灯が不気味に焼却炉を照らしている。
そして──今まさに、懐中電灯で照らし出された焼却炉から何かが現れようとしていた。
「……物好きな人間め。ノコノコと集団で来るなんて、いい度胸してるじゃないか」
焼却炉からゆっくりと炎で包まれた手が這い出てくる。それは、全身を炎に包まれた人の形をした妖怪だった。
「ふん、人間なんて脆いもんだね。ちょっと驚かしたら倒れちゃうなんて」
「お前ッ……!」
僕はすぐさま冥鬼の中の【彼女】を目覚めさせようとする。しかし、それよりも前に聞きなれた怒号が飛んできた。
「どーけぇーッ!」
その掛け声と共に、僕の背中もろとも鬼火に大量の水がぶちまけられる。
声の主を確認するために振り返ると、そこには小さな体を震わせながらバケツを抱えた幼い先輩の姿がそこにあった。