【小田原清音】3★
片翼が焼けてスピードが落ちたとはいえ、ヒスイはほぼ同時に降り注いだ黒い炎を斬り捨てる。
「二度ときぃ様に近づくな」
ヒスイの刀が火の粉を突くと、それはゆるやかな風になって邪気を完全に消し去った。
ようやく仙北屋の気配が無くなったことで清音たちからは安堵の息が漏れる。ヒスイがゆっくりと清音に振り返ると、背の高いヒスイを見上げるようにして清音が小さくはにかんでいた。
「きぃ様、少し大きくなったし?」
そう言って、自分と背を比べるように清音の頭に手を置く。清音は照れくささで視線を泳がせた。
「当たり前でしょ。もう高校生なんだから……」
そう言いながらもヒスイの手の下で、清音は涙ぐんでいた。見違えるほど外見が変わっても泣き虫なところは変わっていない少女を見て、ヒスイが笑顔を見せる。
何かを言おうとして口を開きかけたヒスイだったが、すぐに不穏な気配を感じて清音の体を自分の後ろへと下がらせた。辺りには濃霧が立ちこめ、不気味な妖気が舐め回すようにまとわりついている。
その濃霧の中から、乾いた拍手と共にゆっくりと男が近づいてきた。
「小鳥ちゃんのくせに結構やるじゃん」
ニヤニヤと笑いながら近づいてきた男は尾崎九兵衛だった。清音は強ばった顔で後ずさる。
「良いんスか? 仙北屋クンにあんなことしちゃって」
「ど、どういう……」
清音が問いかけた時、彼女のスマホが着信音を不気味に響かせた。発信者は、母の入院している病院からだ。
「も……もしもし?」
震えた声で清音が問いかける。病院から電話がかかってくる時は、決まって母の容態についてだ。清音は嫌な予感がして、震える自分の手をぎゅっと握る。
頼むから悪い報告はしないで欲しいと、強く願う清音に、電話の相手である看護師は淡々と清音の母が心肺停止状態となったと伝えた。
「──っそんな……」
清音は頭が真っ白になった。
彼女の命を繋ぐ方法は、医師からも仙北屋からも知らされている。ひとつは、呪いをかけた者を殺すこと。そしてもうひとつは──。
絶句する清音を見て、ニヤついた顔の男が軽い調子で言った。
「あらら〜、どうやら悪い知らせだったみたいっスね?」
尾崎の問いかけに、清音はただ浅い呼吸を繰り返すだけだ。様子のおかしい清音を見て、ヒスイが尾崎を睨む。
「何を知ってるし?」
ヒスイの問いかけに、尾崎は低く笑いながら答えた。
「清音ちゃんのお母さんにかけられた呪いは仙北屋黒夢クンがかけた特別製なんスよ。術者が危険に晒されるとお母さんの体にも変化が起きる。オレの言ってる意味分かる?」
その言葉に、ヒスイは自分が斬り捨てた黒い炎と、そして今まさに主が戦っている仙北屋のことが脳裏に過ぎった。尾崎の言葉通りなら、小田原牛蒡は仙北屋たちと決着がついたということだろうか。
「清音ちゃんがオレたちを裏切ったことは不問にしといてあげるよ。その子を渡してくれたらね」
尾崎が指したのは清純だった。二人の関係をヒスイは知らない。だが、尾崎は清純と何らかの血縁関係にあることはその顔立ちを見れば分かる。
「言う通りにしたら、この子はどうなるし」
ヒスイが問いかけると、尾崎はにっこりと笑顔を返す。
「もちろん──殺すよ」
尾崎の足元から不気味な影が広がっているのがわかる。ヒスイは、怯える清純を庇うように羽根で覆った。
「人間が人間を殺したら捕まるし」
「アハッ、小学生でも分かる模範的な解答ありがと、小鳥ちゃん」
尾崎はニヤッと笑って、羽根の隙間から怯えた目で見つめている清純を見下ろしながら言った。
「この子が生きてたらオレが殺さなきゃいけなくなる。そんなの悲しいっしょ? だから殺すの」
尾崎の言うことはチグハグだ。ヒスイは思わず『はあ?』と返事をする。それには答えず、尾崎が自分の足元を見おろす。
「管狐ちゃん、殺っちゃって」
その言葉を合図にして、尾崎の影から出現した管狐が勢いよく清音に向かって飛んでくるが、ヒスイの刀が管狐を薙ぎ払った。鈍い音を立てて刀が弾かれ、管狐が宙を舞う。
ふたつの力はほぼ互角かと思われたが、強い力の反動で焼けた片翼から氷の粒を散らせながらヒスイが膝をついた。
「ぐッ……」
ヒスイの尾羽がビリビリと空気の振動を感じ取って震える。管狐は執拗に彼らの後を追って、ものすごい速さで近づいていた。狙いは清純だ。
「くそッ!」
喋る余裕も与えず、ただ追ってきた妖気から彼を守るためにヒスイが清純の体を突き飛ばした。受け身のできなかった清純は、それの正体を目にすることなく勢いよく地面に転がってしまう。頭を強く打った清純は目眩を覚えた。
「清純! ヒスイお兄ちゃん!」
遠くで清音の声が聞こえる。しかしその呼び声は、次第に小さくなっていた。
清純にとっての家族は、優しい父と姉、そして式神の二人だ。記憶のない彼を迎え入れてくれた優しい人達。彼の記憶の中にも、楽しい思い出ばかりが溢れている。決して、悲しい記憶は存在しないはずだった。
『オサキ、さま?』
清純はぼんやりとその名前を口にする。妙にしっくりとくるその名前を、彼は知っていた。それは、清純が小森トアだった時。彼の耳にはいつも誰かの声が聞こえていた。それは清純の耳元でイタズラに囁いてくる。
『呪ってあげようか?』
その声は、清純を奪いに来た尾崎九兵衛という男にも似ていた。くすくすと笑いながら、それは清純の肩に手を置く。清純は暗闇の中でもがいた。
『嫌だ。ボクはお前なんて知らない……』
『嘘ばっかり。わざと記憶に蓋をしてるだけでしょ?』
声は嘲笑うようにして清純を飲み込もうとする。清純は息苦しさを覚えながら小さくかぶりを振った。
『違うよ。ボクは小森トアじゃない。ボクは──』
清純は絞り出すような声で言った。霞がかかった記憶の中で、尾崎九兵衛によく似た優しい顔立ちの男が頭を撫でてくれた。傍らには優しく微笑む若い女性が居る。
『それで良いんだ。お前は尾崎に縛られる必要なんかない』
男はそう言って清純の頭から手を離すと、女性と共にゆっくりと背を向けた。清純を守るように。
今すぐ彼らを呼び止めたかった。お父さん、お母さん、と呼んで駆け寄りたかった。けれど、清純はぎゅっと拳を作ってこらえる。
『ボクは、小田原清純。小田原牛蒡の息子だッ……!』
強く念じたのか、それとも叫んだのか清純には分からない。しかし彼にまとわりついていた不快な気配は消え去り、暗闇が徐々に晴れていった。
どれだけの間気を失っていたのだろう。俯せに倒れ込んでしばらく動けなかった清純が重い頭をもたげる。霞んだ目で清音たちを探すが、姿が見えない。その代わり、地面に刀が転がっていた。
清純は這うようにしてその刀に近づき、それを抱きしめる。よく見ると、黒丸がヒスイと呼んでいた刀だった。
「みんな、どこ……?」
問いかけるが、ヒスイからは何の応答もない。
「もう誰も護ってくれないよ、トアくん」
ふと、どこからか声が聞こえてくる。清純が泣きながら振り返った。自分によく似た顔の金髪の男が立っている。その頬と服には、べったりと返り血がついていた。
「お姉ちゃんは……さゆちゃんはっ……!?」
「気にしてどうするのかな? もう会うこともないのに」
清純の問いかけに男がにっこりと笑って答える。笑顔に張り付いた鮮血があまりにも不自然で、言いようのない恐怖を感じた。きっと自分はここで殺されるのだ。ヒスイが守ってくれた命も、与えられた名前も呆気なく失って。何も恩返しができないまま。
「九兵衛、何でこんなことするの?」
目に涙を溜めながら、清純が問いかける。涙のレンズで目の前に立つ男の表情すらわからない。分かることといえば、彼がかつて自分に優しくしてくれたことだけだ。学校に行けなかった時、母にぬいぐるみを捨てられた時、彼はこっそりと喫茶店に連れて行ってパフェを食べさせてくれた。かつて自分も、恩人にそうしてもらったのだと懐かしそうに話しながら。
不意に、頭の上に柔らかな感覚があった。
「さあ? オレにも分からない。ただキミには──」
尾崎は笑っておもむろに清純の目の前で屈む。清純の片目から涙が零れて尾崎の顔が視界に映った。自分によく似た顔をしたその男が微笑んでいる。その男の片目からも涙が零れていた。自分と同じ琥珀色の瞳が優しそうに細められている。
「オレと同じになって欲しくない」
男は穏やかな声で言った。どうして泣くの、と清純が問いかけようとした瞬間、彼に向けて煙草の煙が吐き出された。清純が咄嗟に目を瞑る。
「さよなら、トアくん」
耳元で尾崎の声が聞こえる。ハッとして目を開けるが、既に男の姿はなかった。ただ、濃い濃霧と煙草の煙だけが残っている。
清純は涙を拭いながら辺りを見回した。濃霧の先からぼんやりと車の光が見える。それは見慣れないタクシーだった。
排気音を立てながら近づいてきたそのタクシーが、へたりこんでいる清純の傍で停まる。運転席の窓がゆっくりと降りた。
「あいやぁ、ひどい妖気アル。こんな濃霧滅多に見れるもんじゃないネ」
霧に包まれて運転手の顔はよく見えない。清純が目をこらそうとすると、後部座席のドアが開いた。細身の少年がゆっくりと降りてくる。異国の服を纏った、どこか浮世離れした子供だ。清純は彼も、紗雪や黒丸と同じように人ならざる者だと気づいた。
「ハルくん、どうしたアルカ」
大きな体を揺らしながら運転手の男が声をかけてくる。ハルと呼ばれた少年はそれには答えず、清純を指した。
「老師の刀」
そう言って指したのは清純の抱いている古びた刀だ。
「クロを、知ってるの……?」
「我が老師」
ハルは静かに頷いて答えた。口数は少ないが黒丸たちの知り合いのようだ。
「お、お父さんたちをッ……助けて。悪い奴がお父さんとクロを襲ってるんだ! お父さんは陰陽師だけど、体が弱いんだ!」
清純は必死に助けを求めようと口を開くがそれはとても拙い救いの言葉だった。感情のままに喋れば喋るほど、言葉は取り留めのないものになっていく。見ず知らずの、悪人の仲間かもしれない二人組に勇気を振り絞って頭を下げている自分が滑稽だと思った。しかし、何の力もない清純には彼らに頼むことしか出来ない。
「お願いっ……ボクの家族を助けて!」
清純はそう言って、刀をギュッと握りしめた。のんびりとした顔立ちの父親らしき男は困ったように首を傾げていたが、子供のほうは黙って清純の刀を見つめている。やがて静かに瞬きをすると、開いたままの後部座席から離れて軽く清純の頭を撫でる。
「承知」
それは今の清純にとって、とても力強い言葉だった。




