【小田原清音】1★
「うちは普通やないん?」
綺麗な着物を着せられた人形を畳の上に座らせて、幼い少女が問いかける。彼女の父親は一代でその名を知らしめた西の陰陽師、小田原牛蒡。母親は陰陽師の名家である東方清代。二人の間に生まれた娘は高い霊力を持ち、物心ついた頃から怪異に触れていた。清音は早くから他の子供と自分に見えているものは違うと知っていたのだ。
「何仰ってるんですか、きぃ様!」
白い羽根をした元気な声の青年が眉を下げた。父の式神が使役する天狗だ。兄弟の居ない清音は年の離れた彼らをお兄ちゃんと呼んで慕っていた。それは決まって母が定期検査で一週間ほど入院をする時。清音は母に内緒で父にねだって山に滞在することがあった。
それは関東某所に存在する天狗の山。山の上には元々大きな神社があり、牛蒡の式神である烏天狗がゆかりの者を集めて神社を守っている。オオルリとヒスイはその中でも特別な存在だ。
「きぃ様は超かわいいっすよ! なあヒスイ?」
「声デカいし。つかそういうことじゃないし」
菓子を頬張りながら興味の無さそうな態度を取るヒスイと、熱心に清音の世話を焼くオオルリ。同じ双子でも彼らは正反対の性格をしていたが、どちらも良い妖怪だと清音はよく知っている。
「お母ちゃんがな、あんたは普通にしてなさいって言うねん。うち普通やん? 学校で妖怪のおはなししてへんもん」
清音が不安そうにオオルリを見上げる。オオルリは返事に困って相棒に助けを求めるが、傍らで菓子を食べながら視線を逸らしているヒスイに気づいて思わず出そうになってしまうため息を飲み込んだ。
小田原牛蒡の妻、清代の心中を幼い清音は知らない。もちろん、黒丸やその弟子である彼ら双子もだ。
牛蒡と清代、徐々にすれ違っていく二人の夫婦仲を黒丸は案じていた。間に挟まれている師の心中を思うと、双子も複雑になる。
「このままだと良くねーって、絶対」
夜、清音を寝かしつけながらオオルリがぼそっと呟く。彼らに出来ることと言えば、清代に娘の居場所を伝えることくらいだが、黒丸からそのような命令は受けていない。だから余計に歯がゆいのだ。
「……人間の愛情ってよく分からないし。妖怪が嫌いなら一緒になる必要なかったし」
スヤスヤと眠りにつく清音の頭を撫でながらヒスイが言った。普段は息の合わない二人の意見が合致するのは珍しいことだ。
「奥様、マジで妖怪のこと嫌いなのかなァ……」
オオルリが、清音が遊んでいた人形やおもちゃを片付けながら呟く。そんなオオルリの独り言を聞きながら、ヒスイは黙ったまま清音の髪に指を絡めた。
そんな生活が続いて数日経った朝、天狗山へ清代がやってきた。気まずそうな顔をした牛蒡と黒丸も一緒だ。もちろん双子が知らせたわけではない。清代は、娘を妖怪と一緒にさせていたなんて聞いてないと牛蒡に掴みかかっている。
「きぃちゃんがコッチ来たい言うんやからええやん、来させたって。お前もこっちで休むか? 自然いっぱいで体も良くなるで」
そう言ってなだめに入った牛蒡だったが、清代はやにわにその頬を平手打ちした。突然の出来事に黒丸も双子も、そして清音も驚いている。
清代は牛蒡を見ることなく、すぐに清音の手を取った。
「お母ちゃん、痛い!」
「ちょお待て、落ち着け! 病み上がりで気分悪いんやろ? クロの丸薬飲んだらええ、アレはホンマに効くさかい──」
牛蒡がおろおろと声をかけるが、清代の表情を見てハッとした。美しいその両目からは涙が零れ落ちそうになっている。嫌悪や怒りといった感情の涙ではない。牛蒡はそれ以上の声をかけることが出来なかった。当然黒丸たちもだ。清代は唇をぎゅっと噛み締めていたが、やがてか細い声で言った。
「……今すぐ離婚してください」
震えた声でそう言って、痛がる清音を引きずるようにして神社を出ていく。清音は悲痛な声で父親や黒丸を呼ぶが、彼女の小さな声は彼らには届かなかった。
母親の顔は逆光でよく見えない。ただ強く握られた手が痛くて、清音は泣きながら叫んだ。
「お父ちゃんと会えなくなるのイヤ! 何でいつもきぃちゃんに意地悪するん!? お母ちゃんなんか大嫌い!」
清音はそう叫んで母親の手を振りほどこうとする。強く引っ張られるかと思っていた清音だったが、清代の手は簡単に離れた。即座に清音は母に背を向けて天狗山の奥へと逃げていく。
「待って……行かないで清音!」
遠くから清代の声が聞こえるが、清音は止まらなかった。泣きながら、感情のままに駆けていく。
来た道を夢中で引き返したはずだった。しかし辺りを見回しても、父や黒丸の居た大きな神社は見えない。振り返って母親の元に戻ろうとするが、方角すら分からなくなっていた。
「お父ちゃん……お母ちゃん……」
不安になった清音の頭上には、おびただしい数のカラスが木の枝に留まっていた。きっとオオルリとヒスイたちの仲間だと思った清音は無邪気に問いかける。
「お父ちゃんたちどこかなぁ?」
妖怪は清音にとって身近な存在だ。だから何の疑いもなく、顔に御札の貼られたカラスたちに声をかけた。しかし、カラスたちの様子はおかしい。突然翼を広げて清音の頭をつついたり、リュックを引っ張り始める。
「あかん、それきぃちゃんの……!」
慌ててリュックを抱きしめて体を背ける清音だったが、カラスは翼をはためかせて清音を脅かしたり乱暴にリュックを引っ張って彼女を転ばせようとした。
次第に泣きじゃくる清音を嘲笑うように、カラスたちが不気味な鳴き声を上げる。
「きぃちゃんに構わないで!」
リュックを抱きしめて逃げようとする清音の行く手を塞ぐように、カラスたちが清音を取り囲もうとする。清音は後ずさって振り返るが、思いのほかカラスが近くに迫ってきていて足を止めてしまった。
カラスの爪が清音の髪を掴もうとしてきたため、思わずギュッと目を瞑る。
「きぃ様、こんなとこに居たん?」
ふと頭上から声が聞こえて顔を上げると、そこには芋けんぴを口にくわえて悠々とした表情のヒスイが清音を見下ろしていた。襲いかかろうとしていたはずのカラスの姿はない。清音はキョトンとしてヒスイを見上げた。
「食うし?」
「きぃ様がそんなもの食うわけねーだろッ、馬鹿!」
芋けんぴを差し出したヒスイをオオルリが叱りつける。清音はキョロキョロと不安そうに辺りを見回した。ヒスイは芋けんぴを口にくわえたまま清音の視線に合わせるように屈み、その頭を優しく撫でる。
「もう大丈夫だし、きぃ様」
頭を撫でられて安心したせいか、清音はぽろぽろと涙を零してヒスイにしがみついた。
「お母ちゃん、嫌いや……」
ぐす、と清音がしゃくり上げる。
ヒスイが何かを言おうとした時、オオルリが『あっ』と声を上げた。視線の先には清代が息を切らせて立っている。清代は泣きながら清音を見つめていた。
「無事で、よかった……清音」
心底安堵した母の声がして清音が顔を上げる。その頭上には、額に御札を貼った無数のカラスが不気味に彼女を見下ろしていて、清音は直感で母が危ないと思った。
「お母ちゃん……!」
清音が母に向かって駆け出すと同時に、カラスたちが一斉に襲いかかってくる。それに気づいた清代が娘を庇うように手を伸ばすが、カラスのくちばしが清音に襲いかかるほうが早かった。




